嵯峨信之を読む(48) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之を読む(48)

86 借りを返す

 「広大な国」の章では、ひとつのタイトルのもとに複数の作品がつづいたのだが、その最後の「借りを返す」は一篇だけで構成されている。

ゆつくりとくと考えてみたい
死への路上をこんなに気軽に歩いていつていいかどうか
足跡を残さないことは
小さな泥鰌とそつくりおなじだ
息のつまつたような泣き声も泥鰌に似ている
たとえどんなぶざまな死でああつても
どうか笑わないでください
かれはたつたひとりで借りをかえしたのですから

 死(死の国)をテーマに作品を書く--そのことを「死への路上」を「歩く」と言っているのだろうか。死をテーマに作品を書いてきたことを「気軽に」書きすぎたと反省しているのかもしれない。そうであるなら、最後に出てくる「かれ」とは嵯峨自身のことになるだろう。
 いわば「自画像」が書かれていることになる。
 おもしろいのは「泥鰌」の比喩。ドジョウはたしかに足跡など残さない。泥をはねあげるようにして動くので、どんな「痕」も残らない。
 でも、ドジョウは泣くだろうか。空気を求めて水中から浮かび上がり、口をぱくぱくさせてまた水中へもどる姿を「息のつまつたような」と表現し、そのときの水音を「泣き声」と言ったのだろうか。私はドジョウの「泣き声」を聞いたことはないが、「息のつまつたような」という比喩に誘われて、「泣き声」が聞こえたような気がした。比喩の的確さを感じた。
 ただタイトルと最後の「借りを返す」が指し示すものが何かは、あいまいだ。生きてきたことの証として詩を書く。そういうことを言っているのだろうか。


嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社