青山みゆき『赤く満ちた月』 | 詩はどこにあるか

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青山みゆき『赤く満ちた月』(思潮社、2014年10月30日発行)

 「赤く満ちた月」の2連目の

耳の奥が冷たい日は
ひとりはこわいねひとりはいたいんだね

 という2行が魅力的だ。「耳の奥」の「奥」にはっとする。ふつう、耳の端っこ(?)というか、外側が冷たい。特に冬は風があたると冷たいのだが、そうではなくて「奥」。肉体の「奥」というのは血が流れているからたいてい「あたたかい」はずなのに、そこが冷たい。
 この「冷たい」は次の行で「ひとり」ということばに置き換えられている。「孤独」である。「孤独」が「冷たい」。そして「こわい/いたい」。「肉体」の「奥」(内部)で「ひとり(孤独)」を感じている。このとき青山の「こころ」は「耳の奥」にある。

きれいに剥がせないラベルがかなしくて
買ったばかりのワイングラスを
床にたたきつけてやった

 途中に出てくるこの3行1連。「床にたたきつけてやった」というのは、私には納得できないものがあるのだが、「きれいに剥がせないラベルがなかしくて」は「耳の奥が冷たい」と同じように、とても美しく感じられる。
 なぜ、それが「かなしい」のか。
 その説明をしようとするとむずかしい。最初に引用した「ひとり」と呼応していると思う。「ひとり」でグラスのラベルを「きれいに」剥がそうとしている。「きれいに」にこだわる。こだわることが、それしかない。孤独。ひとり。そういう「肉体」が見える。

 「赤く満ちた月」というのは、いわゆる詩というか、まあ、詩らしい形をしている。そういう詩篇のほかに青山は奇妙な作品も書いている。「息を殺す」「昭和の女」「ゆびさきを見ている」。1行1行が長い。

言いそびれたことばのように置き去りにされた携帯が緑いろに点滅している
すべり台の後ろに隠れたまあくんを誰もさがしてくれない おかあさん、どこにいるの
魚が池の底で笑っている 兄が黙って壁の穴をのぞいている(もういいのでは)
仏陀のように西洋ナシはすでに天を黄金色に染めはじめている
                               (「息を殺す」)

 これは何だろう。
 それぞれの行が不定型(自由律)の短歌のように見える。最近の若い人の書いている短歌は、私には、「感性」自慢のようにみえて不気味である。「定型」があるので、そこにあてはめてしまえばどんな感性も短歌になると甘えきっていて、ことばに「論理」というものがないように思える。「論理」の「理」がないと、「真」がつかまえられない。「真理」にたどりつけないと私は思っている。
 青山の「一行詩」は、「五七五七七」という定型のかわりに「(論)理」を選びとっている。
 「言いそびれたことば」、どこかに置き去りにしてきたことば、それが「置き去りにされた」携帯へとつながり、その「携帯」のなかにはまた別のことばが「ある」。メールか、あるいはただの着信を知らせるだけの点滅かもしれないが、着信だけでメッセージがなくても、発信したときに言おうとした誰かのことばがある。それは、いま「言いそびれた」ことばとなって、点滅している。
 隠れんぼうで見つけてもらえない(さがしてもらえない)まあくん。それは、もしかすると忘れさられているのかも。いや、いじわるされているのかも。いじめかも。声に出せない不安。その不安の中で「おかあさん、どこにいるの」とこころのなかで訴える。声を出してしまえば、「隠れている」(隠れんぼう)の遊びが成り立たなくなる。その矛盾のなかで動くこころ。

ペイシーアで買ったアジを食べる土曜日 セブンイレブンで買った肉じゃがを食べる日曜日

 というような、今風の短歌短歌した一行もあるのだけれど。これは、あまりおもしろくない。

耳の奥が冷たい日は
ひとりはこわいねひとりはいたいんだね

きれいに剥がせないラベルがかなしくて
買ったばかりのワイングラスを
床にたたきつけてやった

 これを「一行詩(自由律短歌)」にすると、どうなるかな?
 行分けよりもおもしろくなる--というのは、私の「感覚の意見」。


赤く満ちた月
青山 みゆき
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