嵯峨信之を読む(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「心性」。「しんせい」と読むのだろうか。広辞苑をひくと「天性」という「意味」も書いてある。「こころの天性」、さずけられたこころ、か。生まれたままのこころ、本質としての、こころ。

自らを太陽に近づけるために
涯しない氷原へむかつて自分をおいやるものが
しずかにしずかに一日中
愛の糸車を廻している
そして今日
その糸で織られた大きな帆がいつぱい風を孕んで
海から運河の上を滑るようにさかのぼつてくる

 「太陽」と「氷原」は「矛盾」している。太陽に近づくには氷原とは反対の方向に進まなければならない。太陽から遠いから水は凍る。
 「論理」的に考えるならそうなるのだが、この二行は矛盾している、非論理的であるからこそ、「論理」以外のところに響いてくる。何かをするために反対のことをする。反対のことをして、反動でほんとうにしたいことをする。食べたいものをぐっと我慢して最後まで残しておいて、がつがつ食う。そういう「欲望」、あるいは「本能」のようなもの、だれもが肉体でおぼえていることばにならないものを、この二行の「矛盾」は刺戟してくる。
 「肉体」を直接刺戟することばではなく、「太陽」「氷原」という大きな世界のことばが、「肉体」を洗い清め、「矛盾」を美しくしている。
 「氷原」がどこにあるのか、この詩ではわからないが、「氷」のなかにある水が「海」「運河」という「水」になって動く。「さかのぼる」が「水源」を連想させる。「氷原」は「水源」のように、ある「原点」なのだろう。
 太陽(宇宙の頂点/中心)に近づくために、詩人は「原点」へ自分をおいやる。「原点」に到達すれば、そこに「太陽」があるかもしれない。「氷原」にある「太陽」、「氷のなかの太陽」というのは、これも矛盾だが、矛盾が「存在」を強烈にする。
 矛盾のなかで、ことばがいったん崩れ、そこから矛盾をのりこえる運動を探してことばが動く--そういう動きのなかに、詩があるのかもしれない。
 論理にこだわっていたのでは、詩は見えない。
 「太陽」は「氷原」はかけ離れている。そのかけ離れたものを、向き合った二行のことばのなかにつなぎとめる力、そのかけ離れたものの結びつきに驚く瞬間--そこにこそ詩があるのかもしれない。