村瀬和子「萩の闇」(初出『花かんざし』6月)は、萩の季節、新しい御仏の誕生があると聞いて道祖神が武蔵寺へ集まってくる。なかなか誕生の知らせ(?)がない。飽きはじめたころ、六十の尼をともなって老人がやってくる。
もはや喪うものを持たない古希を過ぎた翁は
わずかに残された白髪を剃ることで仏の弟子になりたいと希うのである
武蔵寺の老僧は涙を抑えながらひとつまみの髪を剃ってやり
連れ添う老尼は
手桶の湯でていねいに頭を浄めてやった
道祖神たちが感動して馳せ参じた新仏誕生の奇瑞とは
たったこれだけのことであり
無一物となった翁が
妻の老尼と連れ立ち
とぼとぼと帰って行った道には
ただ白く埃が立つのみであった
このことばを「物語」ではなく「詩」にしているのはなんだろうか。行替えというスタイルだろうか。そうかもしれない。改行によってうまれる、ことばとことばの「間」(空間)が、ことばを読むスピードを落とさせる。このやったりした感じが、ここで展開されている「物語」のスピードと合致している。
「御仏誕生」というから赤ん坊だとばかり思っていたら、老人だったという「裏切り」(予想外のこと)が、「詩」と言えるかもしれない。
あるいは「予想外」なのに、それを「たったこれだけ」とぱっと突き放したようなところがいいのかも。
不思議なことだが、「道祖神たちが感動して馳せ参じた新仏誕生の奇瑞とは/たったこれだけのことであり」という批評がなくても、老人が出家したという「事実」(物語)は変わらない。そして、そのことばがない方が「これだけのこと」と思わずに、もしかすると感動が強くなるかもしれない。
なぜ、こういうことばが、ここに挿入されているのだろう。
たぶん。
詩とは「事実」ではなく、その「事実」をどうみるか、という「思い」のことなのだ。
「たったこれだけ」という「批評」を加えることで、御仏の誕生に期待する神々たちの欲望(?)のようなものを洗い流し、「仏」とは何?と問い直す。そういう姿勢、世界を見つめなおすというのは、自分の価値観を見つめなおすことだ、という具合に「思い」を揺さぶる。そういう「動き」が詩なのだろう。
「たったこれだけ」という俗な口調が、神々の「俗」を洗い流し、とても気持ちがいい。
*
八木忠栄「母を洗う」(初出『雪、おんおん』6月)。ここに書かれている「母」とは生きている母だろうか。死んだ母を清めているような響きがある。
生家のうらを流れる川
月の光あふれる川べりで 今夜
母を洗う
--ばかげたいい月だねか。
つぶやきながら 母はするすると
白い小舟になって横たわる
死んだ人間がものを言うはずがないから生きている、ということもできる。しかし、生きている人間がそのまま小舟になる(変身する)ということもないから死んでいると言うこともできる。
さて、どっち?
死んでいても、八木の「肉体」のなかには母は生きているから、その母がことばを発しても不思議はない--と私は考える。「ばかげたいい月だねか。」という「口語」のまま、母は生きている。「意味」ではなく、その「語り口(肉体から出てくる音)」として生きている。
これがこの詩の魅力だ。
注釈で八木は「ばかげた--たいへんに」と書いているが、これは注釈がないほうがいい。「ばかげた」という「方言」は「意味」をつたえにくいかもしれない。けれど、そういう「つたえにくもの」を八木と母が共有している、という感じは説明されないほうが魅力的だ。「わからない」何かを八木と母親が共有しているのを「感じる」のがおもしろい。また「わからない」とは言っても「ばかげたいい月だねか。」の「いい月」ということばから、「ばかげた」は強調のことばなのだとわかる。「たいへんに」か「とても」が「すばらしく」かわからないが「いい」を強調している。それも、いつも母親が息子にいうことばそのままで(息子以外の他人にわかろうとわかるまいと関係ないという感じ/息子にさえつたわればいいという感じで)言っている、そしてそれを聞いている(聞いて納得している)ということがわかる。「直接」わかっている。その「直接」の力。
この「わからない」から「わかる」へ飛躍する瞬間(「誤読」かもしれないけれど)が詩なのだと私は思う。「直接」を「直接」受け止めるしかない瞬間の、「誤読/錯覚」のうようなものが詩だと思う。(で、その「直接」がどんなことば、どんな形で書かれているか、ということに私は興味がある。--このことを、別な形で書き直せば「批評」というものになるのかもしれないが、そういうことを書きはじめると詩から遠ざかる感じがしてしまう。)
「誤読」しながら、私は、八木の母ではなく、自分の母のことを思う。母が死んだときのことを思う。母の口癖を思い出す。そして、そのなかで「母を思い出す」ということが重なる。重なってしまうので、あ、この詩は八木が死んだ母のことを書いているのだと思う。八木の詩にもどって、ほっと息をつく。だれかが具体的に見えてくる(その瞬間が具体的に見えてくる)詩はいいなあ、と思う。
*
若尾儀武「在るだけの川」(初出『流れもせんで、在るだけの川』6月)の感想を書くのは二度目である(と、思う)。くず鉄(?)を売り買いする。そして折り合いがついて百十円ということになるのだが、
それやのに金受け取る段に間の悪い
肝心の十円玉受けそこのうて
そこが板敷きつめた橋やったから
二転び版
のばしたワシの指先をひょいとかわして
板と板の隙間から
油テコテコの川づらに落ちよった
と、口語で語られる。この「口語」の手触り、その手触りを支えている暮らしが詩である。「意味」ではなく、そこに「肉体」があらわれてきて、「肉体」を訴えてくる。十円玉を落としてしまった、ということ以上の「実感」が口語の「肉体」の重さとなって伝わってくる。
確かにワシは払うたで
分かってま
これはワシの落ち度や
ふたりの「ワシ」の「肉体」が見える。「いつか/どこか」で出会った人(見た人)が、そこで違った形だけれど、「本質」としては同じ姿、違うから本質がより鮮明に浮かび上がる形で、そこに動いている。こういうとき、そのふたりのどちらを自分の「肉体」と思えばいいのかわからない。きっと、そのふたりのともが「私の肉体」と重なる。こういう「やりとり」をするということと「肉体」が重なる。
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