入沢康夫「ノスタルジア」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

入沢康夫「ノスタルジア」(「鶺鴒通信」秋号、2014年10月10日発行)

 入沢康夫「ノスタルジア」は「鶺鴒通信」が初出ではない。あとがきに「入沢さんの「小詩集」から自筆の短詩をお借りしてページを飾った」と書いてある。左右見開きで、右側の文字は読めるが、左側の天気記号のような、水玉のような、目のような、雪のような模様のあいだをうねっている文字は読めない。
 私は入沢がどんな文字を書くのか知らなかったので、「へーっ」と思って読んだ。画がしっかりしていて、「誤読」されない正確さがある。懐がひろくて、とても読みやすい。入沢の肉体も、文字のように、正確に動くんだろうなあ、意識もきちんと筆順をまもって動くんだろうなあ、と感じる。
 「筆順」と思わず書いてしまったのだが、入沢のことばには「筆順」と似通った正確さがある。筆順というのは、とても合理的にできている。書き方の順序を守ることで、それをすばやく書ける。誤読されないように書ける。たとえば「右」という文字は「一」ではなく「ノ」から書くのだが、「ノ」から書くと乱暴に書いても「石」とは誤読されない。「一」から書くと時には「石」に見える漢字になる。こういうことは「ひとり」でつくりあげるものではなく、他人とふれあい、自分を見直して自然に育ってくるものだけれど、そういう自然な育ち方(動き方)が入沢のことばにある。
 これは、しかし、ある意味では「詩」には向かない。
 詩というのは、周りの人といっしょになってつくるものではなく、ひとりでつくるものである。そのひとりでつくるものが、他人に共有される「運動法則」だけでできあがっていては、詩にならない。ことばが予想通りに動いたのでは詩にならない。はじめて見る、という感じにならない。予想を裏切ってこそ、詩である。
 何かわけのわからないことが書いてある。わけがわからないのだけれど、ひかれる。もう一度読んでみよう--そういう気持ちにさせられるのが詩というものだから、ことばの「筆順」が分かってはいけないのだ。次に何がくるか、次にどんなことばがくるか想像がついてはいけないのだ。
 
 横道にそれたかなあ。そうでもないかなあ……。

 入沢の詩は「ノスタルジア」というタイトルがついている。それだけで、もう「語順」がわかりそうな感じがしないでもない。肉筆の感じが、一種の「個性」(入沢だけ)という印象を引き起こすが、ワープロで転写するとどうなるかな。あることばにつづいて次にくることば……それは手書きの肉筆の場合、腕の動きがまぎれこんで、そこに入沢の肉体を感じるけれど、ワープロの場合はどうなるかなあ。
 興味津々で、私は、転記する。

竹やぶの中の梅雨が
池の水面をぬらしていて
ぼくの心に一沫の湿った風をふきつける
まばらな竹の間から
遠い野をゆく電車が霞んで見え
森を迂回して消えた
ぼくは池に小石を蹴込んだ
黄色い蝶が地面にはりついて死んでいた

 私は「一沫の風」という表現はしないけれど、その直前に「池の水面」があるので、なんとなく納得してしまう。一種のことばの「筆順」を感じ、納得してしまう。「一沫」の風という言い方が、世間で流通しているかどうか、わからないが、「一沫」の「沫」のサンズイが、直前の「水」とそのあとの「湿った」をつないでいるのを感じる。「水」のイメージが「一沫」によって強くなっている感じがする。
 「遠い野をゆく電車」は、「流通イメージ」のような気がする。ことばの「筆順」とおりであり、新しいイメージではない。味気ない感じもする。でも、その文字を見ると、「電車」のなかに「雨」があり、それにつづく「霞んで」のなかにも「雨」がある。「雨」は最初にでてきたことばだが、「水」と「雨」が、「遠い野をゆく電車」が明確な色で描かれていることがわかる。これは「一沫」ということばが途中にあったから感じたことだ。
 そのあと、電車は「森」を迂回して「消えた」。この「消える」にもサンズイがあるなあ、と感じる。「消えた」は「見えなくなった」でも「隠れた」でも「走り去った」でもいいのだが(意味は同じになるのだが)、「消えた」は、そこに「水」があることで、何かイメージ全体を統一している。
 「水」によって統一された世界だな、「ノスタルジア」は水によって統一されているな、という印象がうまれる。こういう「統一」に触れていると、私はとても落ちつく。「筆順」が正確な文字を読んでいるような感じだ。

 そうやって読んできて、次の行、そして最後の行で、私はちょっと驚いた。

ぼくは池に小石を蹴込んだ
黄色い蝶が地面にはりついて死んでいた

 私なら、「蹴込んだ」ではなく「投げ込んだ」にしてしまうだろうなあ、つまずいたのである。「遠い野」が先にでてきたので、「小石」もできるだけ「遠く」へやりたい、「小石」に自分の気持ちをのせて、どこかへやってしまう。そういうときは「投げる」だろうなあ、と無意識に感じた。
 無意識の方が意識に先行するから、私は「小石を投げ込んだ」と読んで、あれ、何かが違うと感じ、読み直し「蹴込んだ」と読み直す。
 そのとき、私自身の「視線」が遠く(遠い野、さらに消えてしまった電車を追ってさらに遠く)を見ていたのが、突然、足元に引き戻された感じなのだ。この「肉体」の動きについていくことは、すぐにはできない。えっ、ここで視線が足元へ戻るのか、と驚くのである。これが入沢の「肉体」か、と感じるのである。
 そしてそのあと、「地面」に蝶をみつける。
 うーん、すごいなあ。
 石を蹴ることで視線を動かし、その視線の動きをつかって蝶を見つけ出させる。これは空想では、なかなかできない。これは入沢が実際に体験したことなのだ(肉体を動かしてみつけたことなのだ)、ほんとうのことなのだ、と感じさせられる。
 「一沫」ということばにみられる「水」の統一、「ことばの意識の統一」が、突然「肉体」そのものの動きで別な方へ突き動かされていくのを感じる。
 そして、その「別の方」は、「別の方」といいながら、「死んでいた」ということばで「消える」とつながっている。何もかも消えたとしても、消えたということを知らせる蝶が残っている。その蝶がこの世から消えてしまった後でも、消えたということを語ることばが残っている。
 世界が一瞬のうちにかき混ぜられ、もう一度組み立て直されている感じがする。書かれていたものとは違う何かが、ここから生まれようとしていると感じる。(入沢が書いていないことを、私は勝手に「捏造」して、書いている、と「誤読/錯覚」する。)

 このかき混ぜ(攪拌)と再構築--その瞬間に見える何か、再構築するときに思い出す何か、そこにこそ「ノスタルジア」を支えるなかにがあるのだ、と突然言いたくなる。

 活字だけで読んでいたら、こんなことは感じなかったかもしれない。手書きの文字だけを読んでも、こんなふうには感じなかっただろうと思う。手書きを読んで、書き写してみて、そのときに「一沫」から「水」を感じ……という「手順(筆順のようなものだ)」をたどることで、見落としていたものに不意に出会ったのだ。

 私の書いていることは「結論」でもなんでもない。
 ただ、そのとき突然私のなかで動いたことばを書いている。ことばを読み、それに反応して私のことばが動きだす瞬間--それが好きで私は詩を読み、感想を書いている。思いもかけなかったことばが、私のなかから動いて飛び出す。その瞬間、それは「誤読」なのだろうけれど、筆者に出会っている(筆者の肉体に触れている)という感じがして、私は、うれしい。

続・入沢康夫詩集 (現代詩文庫)
入沢 康夫
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。