粒来哲蔵『侮蔑の時代』(4) | 詩はどこにあるか

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粒来哲蔵『侮蔑の時代』(4)(花神社、2014年08月10日発行)

 「ある消滅」は、犬の周辺を鞭打つ男と犬のことを書いている。男は犬を鞭打たず、犬のまわりの地面を打っている。犬は逃げきれず、怯えている。だが、我慢しきれずに、犬は鞭にかみつく。

                   犬は食らいついたままま
ま鞭ごと地面にたたきつけられたから、皮膚が破れ血が流れた。そ
れでも犬は鞭の鳴るところ鳴るところへ猛然と飛躍し、その端末を
その影を噛んだ。今度は鞭も否応なく犬そのものを打ったから、犬
は前肢がくじけ、足爪が剥がれ落ちた。しかし犬はひるまなかった。
遂に犬は肉が千切れ、目が潰れ、鞭は背に食い込んで背骨を打ち折っ
た。犬は自らの腹毛の下を血が流れ、その血はかなり温いものだと
自得した。片方だけ垂れた彼の耳にもう鞭の音はしなかった。犬は
自らの詩を手繰り寄せ、その鼻に自らの鼻を重ねてみた。甘い吐息
が犬をくすぐった。その匂いは記憶の中の母の吐息と思われた。-
-それから犬は消滅した。彼のいた辺りに犬の笑いが残っていた。

 これは詩の最後の部分だが、これはいったい何だろう。何かの比喩、何かの寓話だろうか。犬は何をあらわしているのだろうか。
 --ということは、しかし、私は考えなかった。
 そういう犬がいる、と思った。そして、その犬が死んでいくのが見えた。
 不思議なことに、犬が見えると、犬を鞭打っている男の方は見えなくなる。
 そして、その瞬間、鞭打っているはずの男が犬なのだと思った。
 これは矛盾というか、混乱なのだが、たとえば「犬は自らの腹毛の下を血が流れ、その血はかなり温いものだと自得した。」というのは犬自身の感じたことが書いてあるだけなのだが、そう自得したのは犬ではなく男であるように思える。男は、あの犬は血の温かさを感じている。
 「自得」ということばがあまりにも「肉体的」だからだろうか。「自得」の「自」は「自分の肉体」という感じで私には響いてくる。「腑に落ちる」の「腑」に似ている。「肉体」で納得して、「肉体」がそのことに満足している、という印象を「自得」ということばは引き起こす。「自得」という表現でなかったら、私は、この部分を「男の思い」とは思わなかったかもしれない。
 それはさらに、

甘い吐息が犬をくすぐった。その匂いは記憶の中の母の吐息と思われた。

 で、さらに混乱する。「母」ということばが、混乱を引き起こす。
 この「母」は「犬の母」であるはずなのだが、私は「男の母」をどうしても想像してしまう。「母」ということばが、「犬」を忘れさせる「自得」の「自」の影響かもしれない。男は、「自分の」母の最期の息をきっと嗅いだことがあるのだ。母の最期に立ち会い、その息に自分の息を重ねた。そういうことがあるのだろう。だから、犬が、いま母親の息を思い出していることがわかるのだ。

 と、ここまで書いて、そうか、私がここに書かれている「犬」について、こんなことを書いているのは「わかる」ということが自分の中に起きているからだと、わかる。(なんだか、同音異義のことばのために、ことばのなかに閉じ込められてしまったような感じになってしまうが……。)
 そうか、「わかる」というのは「自得」ということなのか。自分で納得して、満足する。他人がどう思うかは関係ない。「自分が」わかる。「自分を」わかる。「他者」と「自」が融合して「一体」になる。
 そういう瞬間が「わかる」。

 なぜだかわからない理由で、犬の存在のまわりを鞭打つ男がいる。その「仕打ち」に耐えていた犬が、突然、鞭に襲いかかり、鞭に打たれ、死んでいく。なぜそんなことをしなければならないのか、わからない。けれど、そうしてしまう犬がいること、そうせざるを得ない男がいるということが、まるでその現場に立ち会っているかのように「わかる」。そこに犬と男がいて、犬と男が、奇妙な形で「交流」していることがわかる。
 互いに互いが嫌いだ。殺したいくらいだ。そして実際に男は犬を殺してしまう。犬は犬で、殺されることを知りながら、殺されるように動く。そのくせ、「ほら、やっぱり殺したじゃないか」と男を笑っている。殺さないようにいたぶっていながら、ついに殺したじゃないか、殺すこと以外はできないじゃないか、と殺されながら反逆している。
 あ、そんなことは書いていないかもしれない。
 書いていないが、私はかってにそう思ってしまう。
 ほかのことも思うのだが(ほんとうはほかのことを書こうとしていたのだが)、私のことばは、書きながらかってに動いていってしまう。--この「かって」、暴走する想像力が、きっと「わかる」ということなのだ。
 何もわからない--がほんとうなのだけれど、私は、そんなふうに「読みたがっている」。ほかの読み方もあるだろうけれど、いまは、そんなふうに読みたがっている。「わかりたがっている」。
 私はいつでも「わかりたがる」ように「わかる」ことしかできない。

 私の「肉体」のなかにある何か、「肉体」が覚えていることが、粒来のことばによって動きはじめている。
 そこからはじまる「肉体」の動きは、粒来のものではなく、私のものである。
 しかし、それを私は「粒来の肉体」だと思おうとしている。
 死んでいく犬が、死の吐息を、母の吐息と感じたように。

 私はなんだかとんでもないものに「復讐」されているようにも感じる。
 私は粒来とはなんの面識もないが(詩を読んで、詩の感想を書いているだけだが)、粒来の「怨念」を浴びせかけられているように感じる。この犬と男の戦い(?)の「無意味」を「わかれ」と迫られているように感じる。
 私の「無知」が侮蔑されているようにも感じる。「侮蔑」ということばが出てくるのは、この詩集のタイトルに「侮蔑」というこばがあるからなのか、あるいは詩の最後に「笑い」ということばがあるからなのか。
 どう書いていいのかわからないが、非常になまなましい「肉体」を目の前に見ているような、「肉体」を見せつけられているような感じがする。そして、その「肉体」に私の「肉体」は反応してしまう。「自得」してしまう。



粒来哲蔵詩集 (現代詩文庫 第 1期72)
粒来 哲蔵
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