「肩の包帯」はけがをした男を見ている詩。男色の詩。棚に手を伸ばして、みたい写真をとろうとしたとき包帯がほどけて一筋の血が見えた。
ものはもとに戻した。
だが包帯はわざとゆっくり直した。痛がらなかったし、
血を眺めるのが好きだから。
私の愛するあの血--。
三行目の「血を眺めのが好きだから」の「主語」は誰だろう。日本語は主語を省略できるので、二通りの読み方ができる。男が、血を眺めるのが好き。私が、血を眺めるのが好き。
写真を本棚に戻した、包帯をなおした、痛がらなかったの主語は男だから、血が好きというときの主語は男かもしれない。けれど、私は、「私(カヴァフィス)」と思って読みたい。
男はカヴァフィスが血が好きなことを知っている。だから、わざとゆっくりと包帯を直す。見つめられていることを意識しながら直す。血は、美形に似合う。男であろうと女であろうと、美形の肉体に血が一筋流れるとき、その傷によって美形が完璧になる。美形に深い影を与え、美形を内部から発光させる感じである。その効果ゆえに、カヴァフィスは血を愛している。
カヴァフィスが血を眺めることが好きなら、男は、そんなふうに眺められることが好きなのだろう。ナルシストなのだろう。
去った後、座っていた椅子の前に
落ちていた血のにじんだ布。
服の一部だった。屑籠直行のボロだったが
私は唇に持って行って
ずっとそのままでいた、
愛の血を唇に押しあてて--。
これも、男はカヴァフィスがそうすることを知っていて、わざと血のついた布を落としていったのだろう。
しかし、ここまで書いてしまうと、詩はしつこくなる。カヴァフィス特有のドラマの激しさが消えて、奇妙にねっとりしている。血という劇的なものを登場させながら、血の美しさを感じさせない。血への嗜好を読者に押しつけてくるような感じだ。
こういう詩を読むと、全集に収録しなかったのは、それなりの理由があるようにも思える。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
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