「アンチオキアの郊外にて」も史実を題材に書いている。ヴァヴィラスとユリアノスの対立を描いている。アポロとキリスト教の対立が根底にある。アポロの神殿の上にキリスト教徒が教会を建て、ヴァヴィラスの遺体を埋葬したことがユリアノスの気に障ったのだ。ユリアノスは神殿を清めようとした。
しかし神殿はきれいにならなかった
即刻、凄い火事が起こった。
恐ろしい火だった。
神殿もアポロンも燃えて地に落ちた。
ここまでが「史実」になる。そのあとがカヴァフィスの「コメント」になる。
ユリアノスは頭に来た。
火を付けたのはわしらキリスト教徒だと言いふらした。
他に何が出来る? 言わせておけ。
証拠なんかない。言わせておけ。
大事なのは、彼が頭に来たことなんだ。
この最後の行がおもしろい。カヴァフィス以外には書けないおもしろさだと思う。「大事」ということばのつかい方がすばらしい。(これは中井久夫の訳であって、原文は「大事」ではないかもしれないのだが……。)
「大事」とは何か。
この「大事」は、その前に書かれている「証拠」と向き合っている。
「証拠がない」、つまり、キリスト教徒が火を付けたということは「ほんとう」(真実)かどうかわからない。その「ほんとう/真実」と向き合っている。何が事件の「ほんとう」なのか、わからない。
けれど、わかることがある。
ユリアノスが頭に来たこと、つまり怒っていること。--それは「ほんとう」のことである。「真実」である。「大事」は「真実」である。
そして、この「真実」は「怒っていること」、つまり「感情」。つまり「主観」。
カヴァフィスは「主観(ほんとうに思っていること、感じていること)」が「大事」と言っている。「客観」(誰が火を付けたか)ということは「大事」ではない。それは「感情の真実」ではない。「客観的真実/事実」よりもユリアノスの「主観的事実」が「大事」と言っている。この「大事」のつかい方は「主観」をこそ書きたいというカヴァフィスの姿勢を象徴している。
「未刊詩篇」の二十二篇のなかでは、この作品がいちばんおもしろい。
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