季村敏夫『膝で歩く』 | 詩はどこにあるか

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季村敏夫『膝で歩く』(書肆山田、2014年08月08日)

 季村敏夫『膝で歩く』の詩篇の多くに注釈のようなものがついている。たとえば「自転車の息」という作品の3連目、

-チャーリキ、チャーリキ
 スチャラカチャン
 切られ切られて
 血がだアらだら

 には、次のような具合。

戦前の神戸のバラケツ(不良少年)が三ノ宮などの盛り場で「よう歌うてたんや」、「海がえらい荒れてるなア。今日なんか舟にのったらしごがれるでエ」。島尾敏雄は開高健に語った。開高健の耳はこのときも勃起したのであろうか。

 この注釈と、注釈されたものの関係は、わかったようでわからない。「チャーリキ……」の歌は神戸の少年が歌っていたというのはほんとうだろう。そのことを島尾敏雄が開高健に語った、そういうことを開高健が島尾敏雄から聞いた、というのはほんとうなのだろう。開高健が、どこかでそう書いているのだろう。私は不勉強なので、何にそう書いてあるのか知らない。
 注釈の最後の「開高健の耳はこのときも勃起したのであろうか。」というのは、季村の推測である。開高健は何かおもしろい話を聞くと「耳が勃起する」(耳が興奮する、耳に血が集まってくる)人間なのだろう。これは開高健がどこかで書いていることを、季村が思い出して書き加えていることになる。推測していることになる。
 注釈は、一般的には詩とは呼ばれないけれど、私はこの注釈に「詩」を感じた。
 そこでは季村の意識が、それこそ「勃起」して、射精している。「勃起したであろうか」と推測する必要などないのに、推測してしまう。季村の「肉体(思想)」が思わず、他人から見えるようになってしまっている。勃起したペニスのように、パンツを履いていても、それがわかる具合に。

 こんな「感想」では、何を書いてあるのかわからないかもしれないが。私が何を言いたいのか、伝わらないかもしれないが……。

 詩と、注釈を読むと、季村は、あるとき、どこかで聞いたことばに思わず「勃起」しているのがわかる。そこにあるものを通り越して、そこにいる季村が「勃起」する。季村のなかの「本能」が動いて、その「場」と向き合っているのがわかる。「平常心(?)」を失って、「本能」に動かされているのがわかる。
 で、この「本能」というのは、説明が難しいなあ。
 おっぱいに勃起する人がいれば、おしりに勃起する人もいる。涙っぽい目に勃起する人もいれば、怒った唇に勃起する人だっているからね。
 「自転車の息」の場合は、どうなのか。

枯れ葉は動かない
バス停の裏の湿地
行き止まりに沈む数枚

こんな夢の残像をかかえ
めざめる

-チャーリキ、チャーリキ
 スチャラカチャン
 切られ切られて
 血がだアらだら

自転車にまたがり
四方八方に陽を浴び
ゆきづまりを打開しようとした

 1連目の「行き止まり」、4連目の「ゆきづまり」という呼応。その間に、自転車をこぎながら歌う、不良少年の歌。あ、あの歌は、何か「行き止まり」「ゆきづまり」を感じながら、どうしていいかわからないまま「肉体(思想)」が勃起していたんだなと感じさせる。
 何かに押さえつけられる。それに対する反発が「不良」の行動になってあらわれる。それは、そういうことをせずにはいられない「本能」である。それは「本能の暴走」ではなく、「本能の必然」だ。それを、「ことば」にする方法がわからない。
 季村は、この「ことば」にできない「肉体」のあり方に「勃起」している。不良少年の「肉体の勃起」にさそわれて、季村の「ことばの肉体」が「勃起」している。
 季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』(書肆山田)で、「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、あらゆることは「遅れてあらわれる」。ことばは、いま起きていることを表現できない。表現できるようになるのは、「遅れて」である。ずっと、あとからである。不良少年たちの「本能(欲望)」を正直に語れるのは、「遅れて」である。どう語っていいのか、そのことばがわからないので、「肉体」がそのまま発することば以前のことば、未生の音楽のようなものを「チャーリキ……」と声にするしかない。
 そういうことがあった、ずーっとあとになって(遅れて)、季村は、いま、

行き止まり
ゆきづまり

 ということばを発している。あれは、「ゆきどまり」「ゆきづまり」と向き合って、それを「打開」しようとしていた何かなのだと。季村の肉体はいま、それがわかったのだ。いま、季村の肉体はそれを思い出し、おぼえていることと「ことば」がここで出会っているのだ。

錆びたダクトから噴出する白煙
自転車(チャリンコ)のチリンがすりぬける

だれにも呼ばれない
それでもペダルを踏み込む

土は冷える
枯葉数枚
空に舞いあがり
車輪と風の衝突

これから弔いだ
だれかに
回転するだれかに呼びかける

 「だれ」にも呼ばれない。「だれ」かに呼びかけたい。「だれ」がわからない。わからないけれど、力を込めて自転車のペダルをこぐ。自転車に乗って走り回ること、肉体を「無も句帝/無意味」に動かすことが「目的」なのだ。大声で無意味な歌を歌うこと。その「無意味/無目的」が「目的」なのだ。
 「行き止まり」「ゆきづまり」を「頭」で知るのではなく、それに衝突してしまいたい。衝突して、「肉体(思想)」がどんなふうに変わるか、そのときの「痛み」を「おぼえたい」。
 そういう「息」が「勃起」しているのを、感じる。

 さまざまなことばに季村のことばは「勃起」する。そして、その「勃起」したときの力を利用して、「いま/ここ」にあることばの内部に分け入り、「いま/ここ」を激しくめざめさせたいと欲望している。
 そういう欲望が、ことばの肉体を、ぐいぐいと押して動かしている詩集である。



膝で歩く
木村 敏夫
書肆山田

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