「レアルコスの子、キモン、二十二歳、キュレネのギリシャ文学学徒」はカヴァフィスがよく書く「墓碑銘」を装った詩である。おもしろいのは、だれかが「キュレネ」のことを讃えて書いているのではなく、「墓碑銘」を書いたのがキュレネ本人であるという体裁をとっていることである。
「幸いのうちにわが終わりは来たりぬ。われとヘルモテレスとは何ものに
よりてもわかたれざる友なりき。
そして、そこに両親や兄弟という「血」のつながりではなく「友」が出てくるのも、とてもかわっていると思う。ヘルモテレスの方は生き残っている。いっしょに死んでしまった友ならば墓碑銘に記してもいいかもしれない。しかし、生き残っていて、これから先、どんな人生を送るかわからない友の名前が書かれるのは異様なことのように思える。
墓碑銘というよりは、死ぬ直前にヘルモテレスにあてて書いたラブレターのような感じがする。私は死んでゆくが、いつまでも君のことを忘れない、とでも言っているように感じられる。
二人は二人ながらに若かりき。ともに二十と三のよわいな
りき。運命の神は裏切りの神にして、横合いよりの愛欲がヘルモテレスを
われより奪いしこともおそらくはありたらんを、よきかな、われらはつい
にわかたれざる愛のうちにありて、わが美しきいのちの終りを迎えたりき。」
ヘルモテレスは、これから先、別のだれかと出会い、そこで愛欲に生きるかもしれない。けれど、それはかまわない、とキモンは思っている。少なくとも、死んでいくいまは「わかたれざる愛」を生きている。キモンは愛欲のためにヘルモテレスを裏切ったことはない。そのことがキモンの誇りである。
あるいは。
私は、まったく逆のことも感じた。これはキモンが死の間際に書いたラブレターではなく、ヘルモテレスがキモンにあてたラブレターかもしれない。感謝のラブレターかもしれない。私(ヘルモテレス)は何度か愛欲のためにキモンを忘れたことがある。けれどもキモンは一度としてそういうことはなくひたすら私(ヘルモテレス)を愛してくれた。愛に生きた美しいいのち、そのいのちのままキモンは生涯を終える。そのことを忘れないために、ヘルモテレスは墓碑銘にあえて自分の名前を書き込む。二回も書き込んでいる。
これは、愛の誓いなのだ。ときに愛欲の誘いに負けてしまうことがあるかもしれない。けれども「わかたれざる愛」を永遠に生きる、キモンが愛してくれたことを生涯忘れることはないと、キモンに誓っているのかもしれない。
--というのは、詩の前半だけを取り上げて読んだ「誤読」なのだが、(実は「われ」はキモンではないことが後半に書かれているのだが)、そこに書かれる感情は、いま私が書いた感想を反芻するように揺れる。カヴァフィスの精神は複雑だ。
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