山本純子の詩は、ことばに無理がない。ことばがそのまま「声」になって聞こえてくる。大好きである。『ふふふ』に収録されている作品は、雑誌に書かれたときに感想を書いたものがたくさんある。未紹介のものを紹介した方がいいのかもしれないけれど、わざとそういうものを探すより、繰り返しになっても私の好きなものを紹介しよう。
「ジュニアポエム双書」と銘打たれているので、「ジュニア」らしい作品。「落書き」。
わたしがいつも
ひじをついているけど
わたしの机じゃない
だからちょっと
落書きをする
かたすみに
やどかりの絵を
音楽室とか
家庭科室から帰ってきたら
待っている
やどかりが
波打ちぎわで
わたしの席に
ほかのだれかが
座っている時
ほかのだれかが
わたしのやどかりを
みつめることも
あるのだろう
ある朝
起立、礼、
で座ったら
やどかりのそばに
かにが一匹
話しにきていた
詩にストーリーは必要ないのかもしれないけれど、ストーリーがあってもいい。
で、この詩の場合、「わたし」が書いた落書きの「やどかり」を見て、だれかが「わたし」がいない間に「かに」を追加したというストーリー、そして、そこに何と言うか「ともだち」を求めるみたいな気持ちがあって、中学生っぽくていいなあ、と思うのだが。
そういうストーリーだけに終わらずに、最終連の、
ある朝
起立、礼、
で座ったら
この部分の「音楽」がとてもいい。私はとても気に入っている。
「起立、礼、」というのは授業の前の「しきたり(?)」でやっていることで、そこに意味はないのだが(この詩のストーリーのなかにおいても、意味はないのだが)、その意味のない部分の、他の行とは違う響きがいいなあ。
起立、礼、
それは「わたし」が言っている「声」ではなくて、同じ教室のだれかが言っている「声」だね。その「わたしじゃない声」が聞こえてくる。「他人」がそこに、ごく自然に、しかし突然入り込んでくる。
この活性化がいい。
「起立、礼、」という「漢字」っぽい強い音もいいなあ。
その前にも「音楽室」とか「家庭科室」という「漢字」が出てくるけれど、ちょっと違うねえ。
「音」ではなく、「起立、礼、」はあくまで「声」なんだね。しかも「他人の声」。
それが、そのまま「わたし」が書いたものではない「かに」のなかに動く。「起立、礼、」と言った人ではないかもしれないけれど(たぶん違うひとなんだろうけれど)、その「かに」から「声」が聞こえてくる。「かにが一匹/話しにきていた」の「話し」が「話し声」そのものになって響いてくる。
たとえば、最終連の三行は、
ある午後、
体育の服を着替えて
教室にもどったら
でも、「かに」の落書きにつながるはずだけれど(ストーリーはかわらないはずだけれど)、印象が違うよね。「合唱の練習から/戻ってきて座ったら」でも違う。「音」が出てくればいいというものではない。
山本は、耳がとてもいい詩人なのだ、と改めて思った。
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