中井久夫訳カヴァフィスを読む(138) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(138)        

 「さるギリシャ大植民地にて、紀元前二〇〇年」と書かれているが、私は場所と年代がよくわからない。けれど、そこに書かれていることば(中井久夫の訳の口調)から、その「場所/時代」が盛りを過ぎた感じを受けとる。カヴァフィスにはこういう感じのする口調の詩が多い。中井久夫の訳の口調というべきなのかもしれないけれど、盛りへ上り詰めるというよりも、盛りにあったものが崩れていくときの、けだるい輝きのようなものが感じられる詩が多い。

この植民地はどうもまずい。
それを思わぬ者はいない。
何が何でも前進するぞ。
改革屋を呼ぶ潮時だろうな。
そう思う者も一人二人じゃない。

 「潮時」ということばがあるが、そこには何かの動きがある。「潮時」というのは「変化」を意味する。だから「改革屋」ということばも出てくる。「改革屋」が「社会」を変えていく。その必要をみんなが感じている。しかし、改革されるのはいやだとも感じている。改革屋は「犠牲を払え」が大好きで、みんなに犠牲を強要する。(これは、詩のなかほどに書かれている。
 だから、こんなふうに言う。

まだ、そんなことをする時じゃない。
早まるな。慌てちゃ危ない。
時期誤ると後悔する。

 ここには、何か男色の相手とのピークを過ぎた関係のようなものも匂っている。もう惰性でつづいているだけの関係。切ってしまって、新しい別の相手との恋を見つけるべきか。いや、「まだ、そんなことをする時じゃない。/早まるな。慌てちゃ危ない。/時期誤ると後悔する。」そういう気持ちが動くときに、カヴァフィスは詩を感じているのかもしれない。

たしかに困る この植民地。バカげたことが山ほどある。
だが人間のすることだ。間違いなしってことあない。
結局、な、とにかく前進しているだろ。

 このままじゃいけない、そう思いながら、それでも日々はつづいている。愛欲のなかで生きている。その愛欲は間違いかもしれないが、人間は誰だって間違いをする。そんなふうに自分に言い聞かせている。「な、」と自分に言い聞かせる口調が、なんとも切ない感じがする。


リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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