中井久夫訳カヴァフィスを読む(139) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(139)        

 「西リビアから来た王子」。ここにはふたつの「口調」が響きあう。一連目は王子を評価して「ありゃ深遠な思想家よ、/そういう人はあまり喋らぬ。」というのだが、そこに何とも言えない「評価する人間」の優越感のようなものがある。「ありゃ」という砕けた口調、「よ」という軽い語尾。
 その口調をそのまま引き継いで、二連目は、まったく反対の評価をするのだが、「口調」が一連目とそっくりなので、あ、一連目の発言者は、そのまま二連目の批判に同調するだろうなあと感じさせる。一連目の発言者の思いをまったく正反対のところへひっぱっていくのだが「音楽(口調)」が同じなので、「和音」のように響きあう。

深遠な? 思想家?
笑わせるなよ、つまらぬ奴よ。
ギリシャの名を付け、ギリシャ服着て、
ギリシャの行儀を習っただけさ。
びっくりさせたら、ギリシャ語じゃあるが、
まったく夷の叫び声。

 ここで「声」が出てくるところが、とてもおもしろい。人間はことばを話す。ことばの「意味」は頭で選択して選ぶ。いや、意味にあわせてことばを選択して、声にする。そういうことを人間はできるが、びっくりすると「頭」の抑制を離れた「地の声(地声)」が出てしまう。
 「意味」ではなく「声」に、その人間の「本質」があらわれる。(一連目の話者と二連目の話者も、声、つまり人間の本性、相手を見下し批判する生き方が通い合う。)
 そういう場に出会ったら、アレクサンドリア人は、王子をからかうだろう。

無口なのはそのせいさ。
文法・発音よく吟味して二、三語しか話さない。
身体の中にお喋りがいっぱい溜まって
気が狂いそう。

 「声」に出すことが大切なのだ。「ことば」には辞書に書かれた「意味」以上のものがある。「声」があらわす「真意」がある。それは「お喋り」のような軽い感じのときにもある。お喋りの「軽み」は「軽み」という「真実」を輝かせる。「声」にしか語れないものがある。
 そういうものを発散させないと、たしかに気が狂うかもしれない。
 カヴァフィスのように、ことばに「主観」を感じ、「声(口調)」に思想をつかみ取る詩人なら、特にそうだろう。中井久夫は、このカヴァフィスの「声(口調)」にこめる思いを的確に訳出していると思う。原文を私は知らないのだが(また読めもしないのだが)、生き生きとした「口語」の訳から、そう感じるのである。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社