池井昌樹『冠雪富士』(36) | 詩はどこにあるか

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池井昌樹『冠雪富士』(36)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「野辺微風」は「人類」の続編と呼べるかもしれない。東日本大震災について何か書こうとして、その何かがうまく書けなかった。書き残したことがある。それを書き直したという印象がある。

こんなことでも なかったら
こうして であえなかったろうに

 こんなことでも なかったら
 だれとも であえなかったろうに

こんなことでも なかったら
こんなことでも なかったら

 「こんなこと」としかいいようのないことがある。起きたことが未体験のことなので、それをことばにする方法がわからない。「こんなこと」としかいいようがない。「こんなこと」で通じてしまうのは、誰もがいっしょに経験したことだからである。具体的なことを言わなくてもわかる、いや具体的なことは「こんなこと」としかいいようがない。まだ、ことばはあらわれてきていないのだ。季村敏夫は阪神大震災のあと『日々の、すみか』(みすず書房)で「出来事は遅れてあらわれた。」と書いたが、「こんなこと」がことばになるにはやはり時間がかかる。「こんなこと」がことばのなかにやってくるのは、もっと遅れてからである。でも、そういうものを待っていて書くのではなく、いま書きたい、いま書かねばならないという気持ちが、ことばを動かして、こうして詩になっている。(「人類」もやむにやまれずに、突き動かされて「ことば」を動かした詩といえるだろう。)

 けれども あいたくなんかなかった
 だれとも あいたくなんかなかった

こんなことさえ なかったら
こんなところで ひとりきり

 「便りのないのは無事な頼り」という言い方があるが、だれとも会わずに暮らせる「平穏」というものもある。誰に会わなくてもつづけられる「日常」というものがある。誰かに会わなければいけないのは非日常なのである。
 東日本大震災のあと、被災者は、誰かに会わなければならなかった。会うことが生きていることを伝える唯一のたしかな方法だからである。そんなふうに切羽つまられること--そんなことなど、だれもしたくなかっただろう。
 しかも、「ひとりきり」で誰かに会う。「ひとりきり」なのは、ほんとうに会いたいひと、いっしょにいたいひとがそこにいないからである。「こんなこと」が人を引き裂いている。
 そんな思いで、人は出会っている。そのとき、安心と、悲しみが同時にある。

 こんなことさえ なかったら
 みんなおんなじ ひとりきり

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 こうして さいて いられたろうに
 いちめん ゆれて いられたろうに

 普通は、なんにもないときは、ひとはみな「ひとりきり」である。誰かと会っている、いっしょにいるということを意識する必要はない。けれど、今は、意識するために生きている。いっしょにいるということを確かめるために生きている。だれといっしょにいるのか、だれがいっしょにいないのか、それを確認するために生きている。まずしなければならないのは、そういうことだと神経が張り詰めている。

 それから時間が経って、いま、目の前では野の花が咲いている。風にゆれている。もし、大震災がなかったら。--そう、池井は、この詩を書いたとき思っていたのだと思うが……。そうだとして、

こんなことさえ なかったら
こんなことさえ なかったら

 繰り返されるのは「あんなこと」ではない。「こんなこと」。大震災も福島第一の事故も「あんな」という離れた「こと」ではなく「こんな」という自分に接続したものなのである。
 「こんな」はつづいている。
 池井はいま「こんなこと」と書くことで、大震災と福島第一の事故を引き受けているのである。

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