中井久夫訳カヴァフィスを読む(129) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(129)        2014年07月29日(火曜日)

 「アンナ・ダラシニ」は、アレクシオス・コムノニス皇帝が母アンナ・ダラシニを讃えた詔勅について書かれたものである。

聡明な妃殿下アンナ・ダラシニ。
いさおしも立居振る舞いも、模範というもおろか。
賛辞は数かぎりなくあるが、
ここでは一つ挙げるにとどめる。
美しく気品あるこの一句。
「こは”わがもの”そは”汝がもの”てふ
冷たきことばを決して口にされざりし きみ」

 アンナ・ダラシニの評価を簡便に書きつらねたあと、アレクシオス・コムノニス皇帝の詔勅を最後に引用している。詩集の前半にあらわれた「墓碑銘」に何か似ている。誰もが知っていることを(歴史的な評価を)そのまま書いている。それを「他人の書いたことば」で伝えている。
 カヴァフィスの個性は、どこに? カヴァフィスにしか言えないことばは、どれ?
 こういうことを考えると、どうにもわからなくなるのだが、その「わからない部分」にこそ詩がある。
 「カブァフィスの個性」「カヴァフィスにしか言えないことば」というものを考えているとき、私たちは「意味」を想定してしまう。カヴァフィス独自の「評価」を読み取ろうとしている。カヴァフィスは、最初からそういうものを表現しようとはしていない。「意味」ではないものを書いている。
 ことばの調子、ことばのリズムと旋律。ことばを省略し、省略することで、ことばを読んだひと(聞いたひと)が、ことばを補うように仕向けている。読者がことばを補うとき、ことばは読者の「肉体」のなかで動く。読者が自分で考え出してかのように、ことばが動く。(カヴァフィスの原文がどうなのかはわからないが、中井久夫は、そうなるようにことばを書いている。)
 たとえば、「いさおしも立居振る舞いも、模範というもおろか。」という行ならば、読者は、「模範というもおろか、模範を通り越した絶対的な模範である」とことばを追加する。自分で追加したことばは、そこで読むことばよりも早い。読者自身の肉体になじんでいるからである。
 そんなふうに読者のなかで読者のことばが動くように仕向けておいて、絶対的に動かせないことばをそれに対比させる。「引用」。そのとき「文体」をかえる。すると、そこにはっきりと、自分ではない人間の「声」が響きわたる。「異質」なものとして響く。わかりきっている「評価」なのに、初めてのように聞こえる。鮮烈に聞こえる。詩として聞こえる。
 これを中井久夫は「文語(旧仮名遣い)」で表現している。この対比の浮かび上がらせ方はすばらしい。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社