中井久夫訳カヴァフィスを読む(128) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(128)        
 「口語」の不思議さは、「ことば」の「意味(頭の中で整理されることがら)」が正確にわからなくても、それを話しているひとの「感情の真実(こころのなかで起きていること)」がわかることだ。「ユリアノスとアンチオキアびと」の最後の二行。

だからさ、みんな揃って「キ」を選んだ。
揃って「コ」を選んだ。ああ百度でも選んださ。

 「キ」と「コ」が何をあらわすか--それがわかる前に、「キ」と「コ」がこころから望んだものではないことが伝わってくる。正確に口にするなんて、まっぴら。その強い感情から出発して「キ」と「コ」が何をあらわしているか、人は直感的につかみ取る。「頭」を通さずに、嫌悪という感情でつかみ取る。こういうときの感情の判断は頭の判断よりも正確である。感情は絶対に間違えない。事実というより、感情を共有するのかもしれない。
 この「ああ百度でも選んださ。」という投げやりなことばの背後には何があるか。感情は、あるいは本能は、ほんとうは何を選びたかったのか。何に親しんでいたのを奪い取られたのか。
 それは最初に書かれている。

そもそもがだ、みんなだ、一体全体どうしてあの美的生活をだ、
捨てられるってのか。あの快楽の日々のひろがりのすべてを。
さんざめく芝居小屋。あのかがやき。
しなやかな肉のエロスと芸術がひとつに溶ける劇場!

 「キ」。キリスト教以前の生活。快楽に満ちていた。
 「そもそもがだ」「みんなだ」「生活をだ」と「だ」によって、文章を「単語」に切り詰めて、その一瞬一瞬に何かを爆発させる言い方--全体を無視して、その一瞬にかける動き。これはそのままセックスにつながる。「快楽の日々」の人間の動きに合致する。
 「捨てられるってのか。あの快楽の日々のひろがりのすべてを。」という倒置法は「捨てられない」という欲望の強さ(欲望の悔しさ)を強調すると同時に、「快楽」をそれと同等のものに輝かせる。
 倒置法によって強調された「快楽」が、そのまま次の行に直接つながっていく。
 これが「あの快楽の日々のひろがりのすべてを捨てられるってのか。」という普通の文章だったら、次の「さんざめく芝居小屋……」と言いなおされる快楽の広がりが遠くなってしまう。
 中井久夫の訳は、欲望(本能)が触れ合っている部分を、触れあったままの形でつかみ取って再現している。こういう感情(欲望)の正直な動きを「口語」として聞いたあとなので「キ」ト「コ」が何を意味しているのかわからなくても、それが何を指しているのかが直観としてわかってしまう。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社