中井久夫訳カヴァフィスを読む(99) | 詩はどこにあるか

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(99)          

 「コマギネの詩人クレアンドロス・イアソンの憂鬱、紀元五九五年」に書かれているのは、美貌の衰えを「ことば」で救おうとする詩人のことが描かれている。

わが身体と美貌の衰亡は
齢の刃の容赦ない切り傷。
だが勝負を投げぬよ、私は。
きみを頼る、「詩の心得」くん、
きみはくすりの心得を知る。
「言語」と「想像」には痛みを救う力がある。

 だが、ここに書かれているのはほんとうに美貌の詩人の姿なのか。
 私には、どうも違うように見える。内部からあふれてくる「欲望」のようなものが感じられない。「わが身体」と書かれているが、その「身体」は「比喩」のように感じてしまう。「齢」も「肉体」ではなく「時間」の「比喩」のように思えてしようがない。
 「詩の心得」の、「心得」がそう感じさせるのかもしれない。
 詩は「心得」ではない。この「心得」を別のことばで言いなおすと、きっと「亡命ビザンチン貴族の詩作」につかわれていた「作法」ということばになるだろう。
 「ビザンチン」では「私の詩の厳しい作法が勘に障って」という文脈でつかわれていたが、詩は「作法」よりもむしろ「勘」の方にある。「人間」の「肉体」の内部の、未分化の生理的反応のような力にある。詩が「痛みを救う」としたら、それは「痛み」よりも深いものをことばでつかみとることで「痛み」を消すのであって、それは浅い傷の痛みを、深い傷の「痛み」で消すのに似ている。深い傷ができた、重傷になったから、軽傷の傷の「痛み」の存在理由がなくなったということ。--詩人なら、そういうことは知っているはずだ。それなのに、ここでの詩人は「想像」で身体の痛み(美貌の喪失)は処理できると考えている。カヴァフィスらしくない。
 なぜ、こんな詩を書いたのか。理由がふたつ考えられる。「わが身体」と書かれてるが、それは「身体」ではない。自分の「肉体」ではないということ。もうひとつは、カヴァフィスが書こうとしたのは、「詩の心得」というような観念に対する批判である。「「詩の心得」くん」の「くん」という敬称の軽さに皮肉があふれている。
 「わが身体の美貌の衰亡」は「詩という身体の美貌と衰亡」なのだろう。「紀元五九五年」のコマネギについては中井久夫が注釈で歴史を書いているが、「没落直前の頽唐期」という。都市が没落するとき、文化が没落する。詩も没落する。詩の没落は「作法」の確革新を怠ったときである。「心得」だけで詩を作ろうとするときである。
 「言語」と「想像」には痛みを救う力がある--というのは、嘘だろう。「肉体」と「現実」こそが痛みを救う。初めてのことだけが、ことばを活性化させる。「作法」「心得」を捨てて、素手で「現実」をつかもうとして、「ことばの素手」が形を変えるとき、その変化する「ことばの肉体」が詩なのだ。(と、私は書きたいが、これは私の先走りかもしれない。この詩の感想を逸脱しているかもしれない。)



中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社