「柳河行」は、公立校の入学試験に失敗した池井が、中学最後の春休みに北原白秋のふるさと、柳川を旅行したときのことを書いている。白秋は、池井が大好きな詩人だ。初期のころの「雨の日の畳」(だったかな?)などを読むと、ことばが古くさくて、まさに白秋--と私は感じていた。私は中学のときから池井の詩を読んでいた。旅行には母親が同行している。
柳河では呑子舟で『思ひ出』のままの掘割を巡った。水底の欠け茶
碗一つにも白秋の息吹を感じた。生家には白秋が隆吉少年の頃に使
っていた文机が窓際にあり、やはりなまなましい吐息を感じた。来
て良かった、と思った。立ち去り難い生家の朽ちかけた海鼠壁の一
片をそっと剥ぐと、母はもう一片を素早く●ぎ取りちり紙に包み私
のポケットに捩じ込んだ。とんでもない母子だった。掘割に沿い私
たちは夢のように経巡り歩いた。『思ひ出』のままの様々な花々が
咲き競っていた。私は道々それらを母へ解説し、解ったのかどうな
のか母は逐一うなずいていた。私は中学の制服姿、母は着物のよそ
ゆき姿だった。
(注 ●は「腕」の「月」が「手へん」、もぎ取る、と読ませるのだと思う)
「時効(?)」になった白秋の生家の壁を剥ぎ取ったことが書いている部分がおもしろい。池井は白秋が大好きだから、その思い出に、思わず壁を一片剥ぎ取った。それを母はとがめずに、もう一片、池井のために剥ぎ取った。それを「ちり紙に包み」というのが、なんとも温かい。そのときの様子がしっかりととらえられている。
私は池井の母には一度会ったことがある。顔も何も覚えていないが、会っている。大学受験の帰りに、私は池井の家へ立ち寄った。試験はまったくできなかった。就職してしまえば、四国へは来ることもないと思い、私はどう連絡をとったのか忘れたが、坂出の池井の家に立ち寄り一泊している(二泊だったかもしれない)。そのときに会っているが、ほんとうに何も覚えていない。
だが、この詩を読むと、そうか、こんなふうに池井のことを心底愛していたのか、大事に見守っていたのか、と気づく。そういう愛のひろがりのなかで、私も、そのとき受け入れてもらったのだろうと思う。
こんなことは、まあ、詩の感想にはどうでもよいようなことなのだけれど、そういうことを急に書きたくなった。そういう気持ちを誘う、ことばの動きが池井のこの詩にはある。あったことをただ書きつないでいるだけ。何の工夫もないエッセイのようでもある。が、その工夫のなさがいいのだ。とても自然だ。ただこういうことがあった--と、それをそのまま書くとき、池井は母をそのまま肯定して、一緒にいる。
これは、たぶん、柳川に同行した母親も同じだろう。受験に失敗し、気落ちしている池井。詩ばっかり書いていて、ほかの勉強をしなかったからなのかもしれないが(ほんとうは優秀なのに、詩にのめりこんだために受験に失敗したのだろう)、それをそのまま受け入れている。受け入れるだけではなく、励ましている。
池井は、花々を見て、それを説明する部分で、「私は道々それらを母へ解説し、解ったのかどうなのか母は逐一うなずいていた。」という具合に、ちょっと母親を軽蔑(?)するような、軽い感じで書いているが、母親には解るのだ。池井の言っている「解説」がわかるのではなく、息子が知っている限りのことを夢中になって「解説しているということ」がわかり、うなずぐのである。花の解説なんかは、母にはどうでもいい。息子が自分のために解説しているということ、その「事実」が「真実」なのだ。そうやって、池井のことばのなかから「真実」を引き出し、育てている。
壁の剥ぎ取りも同じ。心底愛する白秋の家の「一部」をもっていたいという池井の欲望を、ただ欲望として肯定しているのではない。そういう欲望は「真実」であると後押ししている。息子の欲望に「間違い」はない、そう後押ししている。息子のするあらゆることを「真実」にしてしまう力が母親にはある。
その力と一緒に池井は生きてきた。
こんなことは、18歳の私にはわからなかったが、私も、その池井の母の何かに触れたんだなあ、と思い出すのである。
詩の最後に、こんなことも書いてある。
楽しかった思い出はやがて詩となり、私は初めて「詩学」へ投稿し
た。その詩「春埃幻想」は「詩学」史上最高点で第一席となった。
選者は山本太郎、宗左近、中桐雅夫、嵯峨信之。皆物故され「詩
学」も無くなってしまったが、先達四氏の合評を震える指で頁繰り
つつ仰ぎ見たあの興奮はあの日のままに。未踏への憧れは今もなお
私の胸に。
この「詩学」を私は、池井の家に押しかけて一泊したときにみせてもらった。そのことも思い出した。それをみせてくれたときの池井のことばを覚えているわけではないが、あのときの「声」は「真実」だったと思い出す。
うまく言えないが、池井にとって「真実」を語ることは「必然」なのだ。
「現代詩」は「わざと」感覚をつくりだす、ことばで「いま/ここ」にないものを生み出すことを仕事としているが、池井はそういう「わざと」から離れて、「真実」を「真実」にするためにことばを動かしている。
「真実」に「する」という意識は、しかし、ないだろうなあ。
書かなければいけないことを書くと、それは「必然」として「真実」になってしまう。「真実」というのは平凡だから、ついつい見落としてしまうが。そして、おもしろみも欠けていることが多いので、そのそばを通りすぎてしまうものだが。立ち止まってみつめると、なんともいえず静かな気持ちになる。
「真実」と一緒にいると、静かに落ち着く。そんなことを、きょうは感じた。
![]() | 冠雪富士 |
池井 昌樹 | |
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