「アレクサンドロス・バラスの寵童」は、バラスの寵愛を受けた青年の「声」がいきいきと描かれている。その声(主張/主観)がいきいきしているのは、彼の「声」が彼ひとりのものではないからだ。彼の「声」なのだが、そこには「世間の声」(人間のずるい智恵)が紛れ込んでいる。
おれは戦車の車軸の折損でくだらぬ競技に負けが
いっこう気にしておらぬよ。
今晩は徹夜で大酒を食らう。
すてきなバラの花のしとねに寝てだぞ。
と、前半は、バラスと寝る(寵愛を受ける)から競技の敗北なんか気にしないという負け惜しみのようなものだが、後半になると、調子がかわる。「寵愛」を受けるとは、どういうことか。人がだれかを寵愛するとどうなるか、そういうことが寵愛を受けたものしかわからない(けれど、聞かされればなるほどと納得する)ことばで語られる。
バラスはおれさまにぞっこん。そこがバラスのヨワイとこ。
見ていろ、きっとな、明日はだ、競技に不正があったとなる。
(こっそり噂を流すなんてケチなこと おれはせんがの、
したらゴマスリどもはおれの片輪の戦車を一位にしかねぬよ)
彼はただ戦車の車軸が折損したとだけ、バラスに言う。それをかわいそうに思ったバラスは、なんとかなぐさめようとする。そして、おまえが負けたのは不正があったからだと言う。そういうでっちあげをしてしまうというのが、「ぞっこん」ということであり、「ヨワイ」ということ。まず彼のことを優先して考えてしまう。「事実」を無視してしまう。--たしかに王なら、それくらいのことはするかもしれない。だれも王に対して反論しないだろうから。ここには「自負」とともに、世間の批評、やっかみも入っている。あいつは、王のお気に入りだから云々。
世間の目を知っているからこそ、彼は戦車の車軸が折損したという事実を告げるだけ。不正があったとは、言わない。言わないからこそ逆に王が肩入れしてくれる。代わりに言ってくれる。
彼はまた世間の眼のずるさも知っている。もし自分で不正があった言えば、まわりの人間がそれを拡大し、事実を作り替えて王に進言する。車軸が折れて走れないのに一位にしてしまう、ということさえ起きかねない。それでは、王の寵愛を受けている意味がなくなる。王に愛されているのか、ゴマスリどのも保身に利用されているのかわからない。愛されるのはいいが、他人に利用されるのはいやだ。
この強いこころが、「見ていろ」と「きっと」にあらわれている。彼はバラスの性格も何もかも熟知している。王さえも思いのままに動かすことができる。
寵愛するものは、寵愛されるものの奴隷のように動く。--これも世間の声か。
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中井久夫の訳詩『リッツォス詩選集』が発行されます。
20年ぶりの訳詩の出版です。
![]() | リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 |
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