ジャ・ジャンクー監督「罪の手ざわり」(★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 ジャ・ジャンクー 出演 チアン・ウー、チャオ・タオ、ワン・バオチャン、ルオ・ランシャン

 四つの物語が描かれる。最初の最初と、最後の最後で、そのうちの四つの物語の主人公(一人は脇役?)が一瞬交錯するが、基本的には四つの物語に関連性はない。――はずなんだけれど、ちょっとややこしいなあ、この映画のやっていることは。実は、深い深いところで関連性がある。 四つの物語の主人公は孤立している。人が(友人や家族)がすぐそばにいるの
に孤立している。何か、帰る場所がない、という感じが共通している。
 最初の主人公はみんなから慕われているにも関わらず、疎外されている。不正に怒っていて、その不正に対して住民のすべてが不満を持っているにも関わらず、不満が組織化されない。怒りのために団結するということがない。「共産党」の中国において、そういうことが進んでいる。面倒くさいことをせずに、権力になびいて小銭をもらった方が楽、ということだろう。
 二番目の男は、強盗で金を稼いで家族を養っている。三番目の女性はサウナで働いているのだが、恋愛中の妻子持ちの男は優柔不断なうえ、サウナの客からは金で売春を強要される。四番目の青年は、恋人には子供がいて、子供のために接客業をやめられないことを知る。さらには、母親からは仕送りが少ないと叱られる。
 いわゆる格差社会の、所得の少ない人間が真摯に生きようとしても生きられない苦しさで、離れながらつながっている。連帯できない、帰る場所がない(愛情をもって受け入れてくれる人がいない)というところで、すれ違うように関係している。
 彼らを分断しているのは、まあ、金(カネ)だね。
 ということを書いていくと、あまりおもしろくないしなあ。
 もうひとつのつながりを書いてみようか。
 映画の途中に、主人公たちが「京劇」を見る。「見る」というわけでもないかもしれないが、ときどき京劇が挿入される。それも路上での、田舎芝居のような感じの京劇である。そこでは、たとえば誰かが裁判官に訴えている。体制に対する怨念みたいなものを発散し、それを市民が芝居のなかで共有している。
 この感覚だね。
 四人の主人公の、悲しみ、怒りのようなものを、この映画は、路上の京劇とそれを見る市民との関係のようにして描いている。その悲しみ、怒り、わかるよ。よく言ってくれた、とこころのなかで感じ、少し救われるのかな・・・。
 監督がやろうとしていることがわからないでもないが(いや、とてもよくわかるが)、一人に絞って描いた方が「感情移入」できる。散らばって行く感情、どこまで行ってもたどり着けないつらさというのは、見ていてつらい。
 「長江哀歌」のような、生活の美しさも作品を貫いていない。監督は「京劇」のなかで中国人の心情を貫いているというかもしれないが、うーん、京劇に疎い私には、それはわからなかった、と言い直せばいいのかなあ。
 冒頭の、トラックが転倒し、トマトが道路に転がっているシーンの赤の色なんかはきれいなんだけれどなあ。最初の主人公が、そのトマトを手の中で動かすシーンなんか、とても好きなんだけれどなあ。
(KBCシネマ2、2014年06月22日)

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