新井啓子「晴れ女」 | 詩はどこにあるか

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新井啓子「晴れ女」(「続 左岸」36、2013年12月02日発行)

 新井啓子「晴れ女」は帰省したときのことを書いているのだろうか。遠いところから懐かしい場所にもどったときの印象が、ことばといっしょにやってくる。

冬の間締め切っていた
引き戸を開けて障子を寄せて
湿った畳に陽を当てると
沈んでいたイ草の目や埃や出来事が
ふわわあっと起き上がる

 「起き上がる」が、まるで部屋が生き返るみたいな感じがする。新しく呼吸をはじめる感じ。なじみの部屋なのだから「新しく」というのは変な表現かもしれないが、なじみがある、記憶があるということが、「新しさ」を支える。知っているからこそ、「新しい」と感じる。「新しい」と言うことばでは矛盾してしまうので「起き上がる」になる。
 そういう不思議なことばの運動を経たあとで、

運ばなくてもここにはある
ふわわあっとした におい
母の髪の 父の指の
それに連なる人々の
同じまなざしの明るさ

 4連目の「運ばなくてもここにはある」はとても唐突で、「意味」をつかみ取ろうとすると考え込んでしまうのだが、そういう「頭」の運動の前に、不思議なあたたかさにつつまれてしまう。
 1連目で見た「沈んでいたイ草の目や埃や出来事」という「日常の底(?)」にいつもありつづける懐かしさ--その「息」のようなもの、「呼吸」のようなものは、いつでもその「部屋」にあるということがよく「わかる」。まるで新井になって、なつかしい家に帰ったときのような気持ちになる。直感的に「わかる」。
 で、それがよくわかるだけに、そのあとの3行がなんだかもどかしい。「ここにある」と書いてあるけれど、「ここにない」という感じでぼんやりしている。
 母も父も、もういないのかな? 他界したのかな? 思い出だけが、そこに「ある」のかな?

家はいつか朽ちるだろう
庭はいずれ荒れるだろう
けれど なくなってもそこにある
きらきら きらきら 輝いていた
あの夏の雲
あの花の露
あの雪の落ちる音
高く高く伸び上がっていた
あの青い空

 そうか、無人になってしまった家なのか。思い出だけがそこにある。
 それはそれで、きちんと整理されたことばで書かれているのだが、何か物足りない。「運ばなくてもここにはある」の「運ばなくても」ということばが、そこに書かれた「根拠」、「肉体の思想」のようなものが、ぼんやりしてきて、あれ、あの「運ばなくても」の「運ぶ」という動詞はどこへ行ってしまったのかなあ、と思う。
 「運ばなくてもここにはある」という行を読んだ瞬間、私はそこに傍線を引き、その一行もう一度読み、「運ばなくても」というところにさらに傍線を書き加え、二重の線にしたのだが、その「運ぶ」が、詩を読み進んだとき、どこかへ消えていってしまった。
 と、思っていると。最終連。

おまえが来ると晴れる
秋晴れも 小春日和も 五月晴れも
おまえが運んでくる
と 父の声
晴れ女の呼び名をもらったら
前日の雨が上がった

 あ、そうか。すべての美しいものを新井の父は新井が「運んでくる」と言っていたのか。その父のことばが4連目の深いところで動いていたのか。
 そのとき、そこには父はいない。けれど、新井はそのとき父といっしょにいる。それは対話だったのだ。
 「この家のあたたかいもの、美しいもの、なつかしいもの、それはすべて、おまえ(新井)が運んでくる」と、父は言い、
 「そんなことはないよ。私が運ばなくても、すべてがここにある。私がそれをもらったんだよ。ほんとうはお父さんが運んでいるのだけれど、気づいていないんだよ」と、新井。
 そういう「対話」がほんとうはあるのだ。その「対話」は新井にはわかりきっていることなので、大半が省略されてしまっている。そして、その省略が「運ばなくてもここにはある」という、それだけではちょっとわかりにくいことばをとても強いものにしている。思わず目を引きつけ、さらには体全部をそこへひっぱっていくような力をもって動いている。
 「運ばなくてもここにはある」と書いたとき、新井は新井であると同時に父でもあるのだ。新井と父とが「肉体」として「ひとつ」になっている。それは「区別」がない。これは矛盾といえば矛盾なのだけれど、「区別」がないから、「区別」を明確にするような「対話」として明確にすることが新井にはできない。それは「意識」ではなく「肉体(いつでも動いている心臓のようなもの)」なのだ。「肉体」を分離すれば肉体ではなくなる。全部がくっついたまま、いりまじったまま「ひとり」のことばとして噴出してくる。
 あ、これが詩なんだなあ、と思う。
 「ひとつ」のことばの奥には「ひとつ」以上のものがある。それはときには「対立」している。「運ばなくてもここにはある」という一行のなかには、「おまえ(新井)が運んでくる」という父の主張と、「そうではない。最初からここにはある」という新井のことばが対立している。矛盾している。そして、その矛盾のなかには、同時に矛盾をするりとぬけていくことばにならないことば、未生のことばがある。繰り返しになってしまうが、それは強引に言いなおせば、「運んでいるのは私(新井)ではなくお父さんだよ」ということばになる。
 新井は、この1行で、とても強く父を思い出している。父を「肉体」のなかに蘇らせている。父が「未生のことば」として新井のなかで「生まれている」とも言える。
 「未生のことば」。「肉体のなまなましさ/実感としての思想」がつまったことば--そこに詩が「ある」と思う。
遡上
新井 啓子
思潮社