西脇順三郎の一行(16) | 詩はどこにあるか

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西脇順三郎の一行(16)

 『旅人かへらず/三九』(25ページ)

中から人の声がする

 窓の下を通りかかる。部屋の中ではだれかが話している。その声が聞こえる。状況としてはそれだけのことだが--なぜ、この行が好きなのか。
 「中から」の「中」が気に入っている。刺激的である。「中」が見えるわけではない。でも、人がいるのがわかる。この「見えない」のに「わかる」ということが、たぶん刺激的なのだ。現代は「視覚情報」が多い。「百聞は一見にしかず」ということわざがあるくらい、私たちは「視覚(目)」で何かを確かめているが、西脇はここでは「見えない」を「聞く」ことで補って「存在」を確かめている。視覚(目)よりも聴覚(耳)が優先している。そのことが、なぜか、私の肉体の奥を揺さぶる。
 そして、その「耳」も「意味」ではなく、「声がする」と「音」の方に反応している。「意味」を知る前に、「音」を認識し、「音」からそれが「人」のもの、「声」であることに気がついている。「声」には何か不思議なものがある。
 「見えない」(存在と隔離している/断絶している)、でも「聞こえる」(接続している)が入り交じっている。「聞こえる声」には「見えない人」という「断絶」が含まれている。「見えなくても聞こえる」という不思議さ--断絶があっても「わかる」という不思議さ。それがきっと「淋しさ」なのだと思う。
 だから、この行は「人間の話す声の淋しさ」という具合につながっていく。私の肉体の奥につながっていく。