『旅人かへらず/四七』(26ページ)
山の麓の家で嫁どりがあつた
昔の私ならこの一行を選ばなかったかもしれない。「いま」だから「嫁どり」がより新鮮に聞こえる。いまは、嫁どりとはだれも言わないだろう。「嫁」ということば自体が男女平等、ふたりの意思の尊重という概念にあわない。
そういうことばの変化、あるいは「意味」とは別にして、「嫁どり」というのは「音」がゆったりしていておもしろい。濁音・清音という概念が邪魔して、濁音は「汚い」という印象をもたれることが多いが、私は、濁音は豊かな感じがすると思っている。口の中、喉の奥の方に音が反響する感じ、唾がうるおう感じが好きである。
だれの結婚とは書かずに、ただそういう「こと」があった、と、まるで「人事」を「自然」のように詩の中に取り込んでいるところも好きだ。