高橋秀明『捨児のウロボロス』 | 詩はどこにあるか

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高橋秀明『捨児のウロボロス』(書肆山田、2013年09月10日発行)

 帯に「わがスカトロジー」とある。詩集にたくさんの「ウンコ」ということばが出てくる。私は昔から「ウンコ、ウンコ」と言って騒いだ記憶がない。口の両端を指でひっぱって「岩波文庫と言ってみろ」「いわなみ、ウンコ」という遊びも知らないわけではないが、実際にやって誰かをからかったことはないし、からかわれたこともない。なぜかなあ、と考えてみると……。私は田舎育ちで、ウンコというものが自分の日常から切り離されていなかったからである。ウンコが自然のひとつだったのである。ウンコを樽に担いで山野田圃へ運ぶというのは、こどももしなければならない仕事だったのである。ウンコは汚いけれど、暮らしの必需品であり、それは百姓にとっては土とかわりがあるものではないのだった。
 なぜ、こんなことを書くのかというと、高橋の書いている「ウンコ」を読んでも、それが「ウンコ」とは感じないからである。衝撃がないのである。

僕はウンコだ。磔にされたウンコだ。僕は四角く十字に磔された。
ああ。宇宙の渦状星雲=ウンコの僕が、十字にしかくく磔された。
                            (「磔されたウンコ」)

 「渦状星雲=ウンコ」の「=」には(である)というルビが打ってある。
 この「ウンコ」って「ウンコ」の必要があるのかどうかもわからない。「花」でもいいいだろう。「薔薇」にすると三島由紀夫になるのか。--と書いてしまうと、そうか、三島にとっては「薔薇」とか「松」とか、文学にあらわれてくる名詞は「ウンコ」だったのだなあ、ということがわかるのだが、これはまた別問題で……。
 うーん、なぜ「ウンコ」と書いたのかなあ。「ウンコ」にこだわっているのかなあ、ということは、ほんとうにわからない。
 唯一、私がおもしろいと思った「ウンコ」は「昔色エレジー」に出てくる。学校を舞台にしている。

家と学校の違いは何ですか?
家はウンコを出す便所(トイレ)
高所はウンコをガマンする便所(トイレ)
いまはその差も縮まりましたが
カーン カーン

 「ウンコ」と「便所」がセットで語られる。家ではウンコをするが学校ではしない。なぜか。いまなら「友達にくさいとからかわれる」というのが理由になるかもしれない。いまはどこも水洗トイレなので、ウンコをしてきても体は臭くないからからかおうにもからかえないだろうけれど。
 これは、私が、頭で考えたこと。
 実際の体験に則して言えば、家はそのまま田畑の仕事に結びついている「暮らし」の場であり、学校は「暮らし」から切り離された場所だった。だから「ウンコ」はしにくかったのだ。がまんする、というより、家ですませてしまって、学校ではしない。
 ということは。
 「ウンコ」が「ウンコ」として「生きる」場というのは、「暮らし」とはかけはなれた場なのである。ただし、このとき「暮らし」というのは「ウンコ」を必需品と感じる「暮らし」、昔の田舎の百姓の暮らしのことである。
 逆に言いなおすと、「ウンコ」が衝撃をもって受け取られるのは、「ウンコ」を切り離す思想が肉体となっている「暮らし」においてなのである。「ウンコ」が隠れれている場では「ウンコ」を語ることが詩になる。
 芭蕉の、

のみ虱馬が尿する枕元  (表記、未確認)

 は、のみや虱がいて、自分が寝る近くに馬小屋(牛小屋)があるような田舎の家では、それがどうしたの、という感じになってしまう。馬や牛の尿のにおい、ウンコのにおい、さらに人間のウンコのにおいが、いつもの暮らしなら、こういうことは詩にはならない。芭蕉はそういう「暮らし」をしていなかったから、そのことがおもしろかったのだろう。
 詩にもどると、「学校の便所」と「ウンコ」の組み合わせがおもしろいのは、学校が「暮らし」ではないから、「自然」ではないからである。だから、そこでは「ウンコ」が何かしらの「自然の反逆」となる。「自然」が、そういうところ暴れ出すと、「肉体」に反動がやってくる。
 この反動--ここではウンコを我慢するということなのだけれど、そのとき、「肉体」に刺戟がある。「肉体」の反応--それが「ウンコ」にとっての「自己主張」のようなものである。ウンコを我慢するとき、ウンコは出たがる。ウンコに意思があるわけではないが、そんなふうに感じる。そのウンコの意志(欲望/本能)と肉体(思想)の戦い(ここではウンコをしてはいけないという抑制)が、おもしろいのである。「ウンコの肉体」が「学校の肉体」とぶつかる。「暮らしの肉体(自然の思想)」が「学校の肉体(アンチ自然の肉体)」とぶつかる。そこに、「いのち」の戦いを感じるのである。
 大げさにいうと。

 でもね、高橋が書いている「ウンコ」のまわりにどういうことばが集まってきているかということを見ていくなら、いま私が書いたことがらは、そんなに見当外れでもないような気がするのである。高橋は「ウンコ」と何を戦わせようとしている。何に対して「ウンコ」を内側からぶちまけようとしているか……。

僕はウンコだ ほんとは血肉となるべき飢えや欲望の滋養を 泣い
て感傷にくだし続けた僕は だからウンコだ 父母なき捨児の分際
で「戦う」という名目を発熱しても 痰切れせぬ郷愁を抗生剤より
強く叩き出そうとしても 歳月に粘る因果の不毛は もはや鎮静が
きかぬ
                     (「黄色エレジー--咳するウンコ」)

 「欲望」「滋養」「感傷」「名目」「発熱」「郷愁」「抗生剤」。これらの漢字熟語(名詞)、そういう「ことば」を生み出す文化構造(自然構造じゃないよ)に抗っているのだなあ、ということが私には感じられる。
 だから、といっていいのかどうかわからないが、まあ、高橋の書いているスカトロジーというのは「正当」な形なのだと思うけれど。
 思うけれど。
 ここで、私の「肉体」からはぐいぐいぐい、とウンコのように疑問が出たがるのである。我慢しきれないのである。
 なんで「スカトロジー」?
 別なことばで言えば、何で外国語の「スカトロジー」ということばが出てくるのかなあ。文化構造に対して自然の肉体(肉体の自然/ウンコ」)をぶつける、そこから肉体の復権(自然の復権)へ動いていくというのは、「外国経由」でないと形にならないのかなあ。ウンコをするというのは、日本も外国も同じでしょ? 同じ「肉体」でしょ? その同じ肉体の問題、肉体の自然と、文化の肉体のせめぎ合いを、どうして日本語でことばにできないのかなあ。「スカトロジー」なんて言ってしまったら、それは「外国の思想(肉体)」で自分の「肉体(思想)」をととのえて提出することにならない?
 ウンコというような、赤ん坊も捨児もするようなことを、教養(外国語)経由で語るから、そのウンコは、もうぜんぜん汚くない。私はもともとウンコを汚いと考えるところで生まれ育っていないのでウンコということばに嫌悪感はないのだが--だからこそ、この教養主義的な高橋の「ウンコ」にはうさんくささを感じる。
 なまあたたかい、ほかほかの感じ、土の中でよみがえるいのちのような感じがしない水洗トイレ経由、殺菌済みの固形ウンコは、うさんくさいなあ。

捨児のウロボロス
高橋秀明
書肆山田