谷川俊太郎『こころ』(58) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(58)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「記憶と記録」は対句のようにしてことばが動く。

こっちでは
水に流してしまった過去を
あっちでは
ごつい石に刻んでいる

 最初の2行が「記憶」、次が「記録」ということになるのだろう。「ごつい石に刻んで」が、不思議となつかしい。「肉体」的である。これが10ギガのメモリーに書き込み、だったりすると、なんだかうさんくさい。「肉体」で苦労して石にことばを刻む。その肉体の動きがなつかしいのだ。きっとワープロで刻んだ記録--それもメモリーのなかに入ってしまうと、直接見えないので、もう何もおぼえていないに等しいね。
 おぼえる、思い出すは、「肉体」の仕事なのだ。
 で、肉体の仕事だから、たぶん石に刻んだことは、刻むことで肉体から捨てるということもできるのだと思う。メモリーに刻んだのでは、この「捨てる」ときの、さっぱり感がないね。「ざまをみろ」という感じが。
 (と、きょうは、前に書いた感想とはまったく違ったところへことばが動いているなあ、と思う。きのう、きょう、私に何か記憶しておかなければならないようなこと、記録しておかなければならないことがあったのかなあ……。ことばへの感想は、日々かわるものだなあ。)

記憶は浮気者
記録は律儀者

 そうとはかぎらないかもしれない、ときょうの私は思う。「記録」は変更がきかない。たしかに石に刻んだ文字はかわらない。だから「律儀者」。そうかな? 「記録」そのものはかわらなくても、それは書いた人(刻んだ人)がそう思うだけで、読んだ人は違うだろうなあ。最初は感動しても、あるときはバカだなあと思うかもしれない。「いま」とあわなくなってしまう「記録」というものがある。それでも「律儀者」という具合に重宝されるかというと、そうではなく、逆に抹消(削除)されるということもあるだろうなあ。「記憶」以上に「やっかい者」かもしれない。

だがいずれ過去は負ける
現在に負ける
未来に負ける

 負けたふりをして、身を隠していて、そのあと突然あらわれてくるという逆襲もあるな、きっと。

忘れまいとしても
身内から遠ざかり
他人行儀に
後ろ姿しか見せてくれない

 あるいは逆に、忘れようとしても忘れられず、体の奥にひそんでいて、ある瞬間に体を突き破って暴れ出し、その後ろ姿を呆然とみつめることしかできないということもあるかもしれない。
 そういうとき、「記憶」「記録」「過去」は「未来」になっている。

 谷川の詩の最後の「主語」は「過去」なのか「記憶」なのか「記録」なのか、断定はできないが、「記憶」「記録」を含めた「過去」なのだろうけれど、その「過去」と「対句」を構成するかもしれない「未来」のことを、私は、ふいに思ったのだった。

二十億光年の孤独
谷川 俊太郎
サンリオ