谷川俊太郎『こころ』(37) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(37)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「言葉」を読むと、ああ、東日本大震災のあとの衝撃から、ことばがやっとことばとして動くことができるようになったのだ、という感じがする。「出来事」ではなく、ことばは遅れてあらわれる、のである。

何もかも失って
言葉まで失ったが
言葉は壊れなかった
流されなかった
ひとりひとりの心の底で

 ひとはことばを失う。どう語っていいか、わからない。ことばが出てこない。でも、そういうときも、ことばは「壊れた」のではなかった。
 「壊れなかった」という「出来事」が「言葉」といっしょに遅れて、いま、あらわれたのである。ことばが動いて、「言葉は壊れなかった」という「事実」を「出来事」として、いま、ここに、「あらわす」。そのことばのなかから「言葉は壊れなかった」という事実が出来事としてあらわれる。
 そういうことは、すぐには起きない。どうしても「遅れて」やってくるしかない。
 でも、遅れてやってくるからこそ、それは「ああ、そうだったのだ」という感じで、ころろの奥底をつかむ。

言葉は発芽する
瓦礫の下の大地から
昔ながらの訛り
走り書きの文字
途切れがちな意味

言い古された言葉が
苦しみゆえに甦る
哀しみゆえに深まる
新たな意味へと
沈黙に裏打ちされて

 ここには、不思議な「矛盾」のようなものが満ちている。「発芽する」ことばは、新しいことばではない。それは「昔ながらの訛り」「言い古された言葉」である。つまり、私たちが「覚えている」ことば。それが、いま「肉体」の奥から「発芽」してくる。新しい種がまかれて、それが発芽するのではなく、私たちの「肉体」のなかに生き残っていたことば、壊れなかったことばが、もう一度、生きはじめる。
 「発芽する」は「甦る」なのである。そして「発芽する」は単に大地から生まれることではなく、その大地の内部へ「深く」根を張ることでもある。「発芽する」は天に手を伸ばすと同時に、地の奥に深く根をのばす。
 そうやって、ことばは「新たな意味」になる。
 「意味」が大事なのではなく、きっと「新たな」が大事なのだ。

 きのう読んだ詩では「シヴァ神」が「新たな意味」になりきれていなかった。「破壊と創造」ということばといっしょに書かれていたが、そのときは「破壊」の「意味」しか動いていない。「破壊」の衝撃が強すぎて、「創造」の「意味」がどんなふうに動いているわからない。
 それが、いまでは、わかる。
 「苦しみ」「哀しみ」とより合わさって、ことばが動きだすとき、そこには、まだことばになりきれない愛だろうか、喜びだろうか、なんと名づけていいのかわからないものが動きはじめる。「苦しみ」をやわらげ、「哀しみ」をなぐさめる何かかもしれないけれど、正確にはどう呼んでいいか、わからない。
 なぜなら、それは
 「新たな」
 何かだからである。「新たな(意味)」には、まだ、「名前」はない。その「名前」は発芽したことばが花を咲かせ、実を結んだときに、やっとわかる。「新たな意味(名前)」は、やはり「遅れてあらわれる」しかない。

 でも、私たちはわかっている。どんなに「遅れて」あらわれても、それは必ずあらわれる、ということを。

生きる
谷川 俊太郎,松本 美枝子
ナナロク社