岡田ユアン「ギフト」のことばはなかなか先へと進まない。
じんわりと夜がなぞられて、なぞられていることに気づいていない私は山々を眺め、朝がたちあらわれるのを待っている。しかしたちあらわれるように朝はたちあらわれず、じんわりと夜になぞられた朝がしみだしてくる。闇はどのような選択もまだ許されている紫を生んで消えてゆくので、残り香だけは胸にとどめておこうとして深呼吸をする。そのとき、紫に与えられて許されている選択が私の鼻腔をとおり湿り気をおびて希望のように肺にはいってくる。
何が書いてあるのか--「意味」の選択は読者に任せられている。長いセックスがおわって夜が明ける、朝がくる。そのときのけだるい感じがただよっている、と想像するとき、その想像のなかには「残り香」とか「なぞる」ということばの「過去」が肉体となって動いていることになる。その肉体の「動き」が「意味」というものである。
そういう「選択」できる「意味」よりも、「選択できない」肉体が、ここにある。岡田の独自性、特別な「肉体(文体)」がある。それは読者が「選択」できるものではなく、受け入れるしかないものである。(もちろん拒絶もできるが。)その「文体」は、しり取りのように繰り返されることばで特徴づけられる。行動がことばにされるとき、肉体はことばよって反芻されている(尻取りされている)。その反芻を、ふつう「意識による」反芻と言うような気がする。行動(肉体)が先にあり、そのあとにことばがあるのだから。先行するものを、あとからやってくるものは反芻する。これは反芻の基本的な形である。けれど、その反芻をされたことばをもういちど反芻するときも、それはことばなのか。意識なのか。ことばを肉体で反芻しているのではないのか。
これを見極めるのはむずかしい。
そのうえ、反芻には「時間」というものが必然的に必要になり(特に肉体でことばを反芻するときは「瞬時」というわけにはいかないので)、そこに「時間」が紛れ込むということは、反芻しようとしたもの以外も、そこに紛れ込むことになる。肉体がことばを反芻しようとするとき、何もすることがない「意識」はついついよそ見をしてほかのものを取り込んでしまう。
書き出しの文章に沿って言いなおすと、ある肉体の動きをを受け止める肉体の感覚を「なぞられている」ということをことばにし、その「なぞられている」ということをしっかり肉体でつかみとろうとするとき、その肉体は「なぞられている」最初の肉体(ほんものの肉体?)というよりも「ことばの肉体」というべきものかもしれない。で、それが「ほんものの肉体」ではなく「ことばの肉体」であるからこそ、「意識」は「ほんものの肉体」から生まれてきたときとは違うことを感じはじめる。つまり「ずれる」。そっくりそのままの反芻ができなくなり、意識はふと山があることに気がついて山を眺めてしまうという具合に、「ほんものの肉体」を別な次元に動かしてしまう。意識と肉体が反芻しながら、少し、ずれる。ずれながら繰り返されるのである。
で、この意識(ことば)と肉体(ことばの肉体)というのは、はっきりとは切り離せない。「ふたつ」の存在に分離できない。からみあって、もつれあって、反芻するたびに増殖する。そして、どうなるかというと。
切り離せない二つはくるくるとまわって、まじりあったり離れたり。いつかどこかをめぐっているから、始まりと終わりが不在名空間も存在すると思う空間も存在するが、思うと思わないに関係なく始まりと終わりは空間をめぐっている。
この「始まり」を「ほんものの肉体」「終わり」を「ことばの肉体」と読み直すと、私が先に書いたことになる。
詩のつづき。
始まりと終わりの中を朝も夜もまわる。ぐるぐると空間をめぐる。私は定点になり画鋲のように空間につきささっているからぐるぐると空間をめぐる朝と夜のなかに包み込まれる。始まって終わって始まって終わるから助詞の「と」はいらない。ぐるぐるでいい。円環境よりも不整合で寛容で重層的なわたしたちのぐるぐる。
突然、
助詞の「と」はいらない。
と、宣言する。
あ、いいなあ、この「一元論」の宣告。
「ぐるぐる」の主体である「肉体」と「肉体のことば(精神)」という区別は無意味。それは「ぐるぐる」している。「と」はいらない。でも、それでは「肉体と精神」という「二元論」はどうなるのか。--「二元論」はだめ、と岡田はここでは宣告しているだけである。
「一元論」で言いなおしてみるとわかる。「肉体は精神(ことばの肉体)」であり、「精神(ことばの肉体)は肉体」である。それは「ぐるぐる」まわって、まわることでしかつかみとれない。--というわけではないと思うが、岡田の「一元論」はそういう「ぐるぐる運動」として、いま、ここに「たちあらわれている」。
この「ぐるぐる」の発見を岡田は「ギフト」と呼んでいるのだが、たしかに天からの贈り物だろし、岡田の存在自体が私には「ギフト」に思えた。私は不勉強で知らなかったのだが、こういう具合に「一元論」を書く詩人に出会えたのは、この夏のいちばんの幸福だ。
*
加藤思何理「彼女の背中に隠された水脈」。ひとの名前は、ひとの哲学まで決定してしまうのか、「思何理」という名前は、
月が満ちては欠け、欠けては満ちる、それが何千回となくこの星で繰り返されるあいだ、もはや白くなった頭でぼくはきみに問いつづける、
の「頭」そのものを連想させ、その「頭」の特権的な位置(命名)は、強靱な「二元論」を生きていることを感じさせる。この「二元論」が、この作品では対話という形式で反芻される。「二元論」であるから、とてもすっきりしている。きちんとことばが分類されまじりあうことがない。それを清潔と感じるなら、加藤の書いている詩はおもしろいかもしれない。
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