駱英『第九夜』 | 詩はどこにあるか

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 駱英『第九夜』は「馬篇」と「猫篇」から構成されている。私は猫が苦手である。そのせいもあるかもしれないが、「馬」の方が圧倒的におもしろかった。最初に「馬」を読んだ、ということも関係しているかもしれない。主語が「馬」は「オレ」、「猫」は「ワシ」と書かれていることも関係しているかもしれない。「ワシ」という主語が私には耳障りだった。そのために文体が違って聞こえる、ということも影響しているかもしれない。「かもしれない」ことはわきにおいておいて……。

 「馬篇」は、

 オレは、ついに認めざるを得なくなった。オレは実は馬の変種或いは異形なのだ。

 と始まる。人間ではなく馬、人間と馬のまじったもの、か。そのオレの性(セックス)が語られるのだが、うーん、

 だから、もはや自分ではなくなったということによって、オレは自然に性欲の快感や絶頂感を賞味するに至り、さらに、その故に大いに感激し、誇りを感じた。
 さらに同様に、その故にオレは、一切のヒトたる権利や自尊を、酔生夢死、肉欲至上における最高水準に達するために、自らを放棄することができた。

 という具合に、なにやら七面倒くさい感じで、抽象的なことがかたられるばかりで、半馬半人(半人半馬)のセックスがどんなふうにして行われるかとか、どんな新しい快感を体験したのかとか、エロチックなことは書かれていない。
 では、それがおもしろくないかというと、いやあ、逆。おもしろいなあ。興奮しながら(セックスしながら、どきどきするように)、一気に読んだ。
 セックスというものは、新しい快感へ向けて先へ先へと進んで行く、欲望が膨張していくようだが、意外とそうではなくて、「過去」をひきずる。「半馬半人」になったからといって、「馬」の欲望へ突っ走るわけではなくて、ヒトをひきずる。ヒトの「過去」をひきずることで、馬の新しさも際立つという具合なのだが、その「過去」とは何かなあ、と思うとき、先に引用した4行が、おもしろい。そこにキーワードがある。

その故に

 これが2回登場する。
 この「その故に」って、何? 「わかる」けれど、ちょっとほかのことばで(自分のことばで)言いなおすのがむずかしい。「理由(原因?)」として、「そのこと(これも具体的に指し示そうとすると七面倒くさい)」とつながっているのだが、そのつながりは厳密な「論理」ではない。厳密ではないから、つまり科学的な(論理学的な)つながりとして説明が必要なものではないから、--論理として定式化されていないから、説明が七面倒くさいということになるのだが、それは、いわば「感覚」として納得する(受け入れる)しかないものなのである。
 逆に言うと。
 「その故に」とあたかも「論理」を装っているけれど、そこには「論理」はないのである。では、何があるかと言うと、「半馬半人」(と駱英は書いてはいないのだけれど)のような、「変種/異形」がある。
 つながっているけれど、そのつながりは普通ではない。論理的ではない、ということがある。「変」とか「異」という印象は、つながっているけれど、そのつながりが自然ではないときに感じる印象である。自分の知っているつながり方(接続の仕方/過去の論理の定型)と違うから、変だなあ、異なっているなあ、と感じるのである。

 では、駱英の、「つながり方(つなげ方)」は、どうなっているのか。26ページに「オレ或いはオレ達」という表現が出てくるが、これは「半馬半人」が単数であると同時に、馬とヒトの複数であることを語ったものだと思う。その単数であり、複数でもある存在と言うのは、どこかで「肉体」がうまく融合してつながっているようだけれど、ほんとうに融合していないために「意識」が分裂して、「オレ或いはオレ達」なるのだと思うが、その「オレ(馬)」と「もうひとりのオレ(ヒト)」は並列の関係かな? 並列することで複雑になっているのかな? 融合しているけれど、ときどき分裂するのかな?
 というようなことは、考えていてもわからないので、先を読む。

 特徴的な文体がいくつも出てくるが、繰り返される文体がある。

 雄性とは、生殖器官の巨大無比であること。
 野蛮とは、如何なるセックス衝動も抑制しないこと。
 高雅とは、有史以来の如何なる文明や哲学も用いることができること。
 聡明とは、最初の一時間でもう乱倫の機会とルールとを掌握すること。
 迅速とは、転落の過程に些かの躊躇いもないこと。
 無恥とは、時を選ばず白日の下でも発情してくること。
 エコとは、コンドームの使用は永久にあってはならないということ。
                                 (51ページ)

 オレは、財産を盗み、しかも処女と密通した。
 オレは、権力を盗み、しかも同性や異性と密通した。
 オレは、栄誉を盗み、しかも時代と密通した。
 オレは、変種を盗み、しかも異形と密通した。
 オレは、コーヒーを盗み、しかも乳房と密通した。
 オレは、詩句を盗み、しかも子宮と密通した。
 オレは、未来を盗み、しかも星空と密通した。
                                (106 ページ)

 この行は「並列」ではない。「融合」でもない。「共存」でもない。あえて言えば、

競存

 である。すべてが競い合っている。そして、その競い合いは実は「その故に」でつながっている。駱英のことばに、「その故に」補う、あるいはあることばを「その故に」に書き直してみるとわかる。

 雄性とは、生殖器官の巨大無比であること。
 「その故に」野蛮とは、如何なるセックス衝動も抑制しないこと。
 「その故に」高雅とは、有史以来の如何なる文明や哲学も用いることができること。
 「その故に」聡明とは、最初の一時間でもう乱倫の機会とルールとを掌握すること。
 「その故に」迅速とは、転落の過程に些かの躊躇いもないこと。
 「その故に」無恥とは、時を選ばず白日の下でも発情してくること。
 「その故に」エコとは、コンドームの使用は永久にあってはならないということ。

 オレは、財産を盗み、「その故に」処女と密通した。
 オレは、権力を盗み、「その故に」同性や異性と密通した。
 オレは、栄誉を盗み、「その故に」時代と密通した。
 オレは、変種を盗み、「その故に」異形と密通した。
 オレは、コーヒーを盗み、「その故に」乳房と密通した。
 オレは、詩句を盗み、「その故に」子宮と密通した。
 オレは、未来を盗み、「その故に」星空と密通した。

 この感想の最初に引用した文に、非常に似てくる。あることを「過去」として、それを接続しながら、突き破り、動いていく。「その故に」という「感覚」がことばを動かしていく。なんにでも「理由」をつけて、踏みつけて、突き破る。そうやって競う、競うことでともに「存在」を証明する。
 なぜ、競うのか。
 競うことが資本主義だからである。競うことで新しい欲望を具体化する、まだ存在しない欲望を産み出しながら「いま」を消費していくのが資本主義だからである。駱英は中国人だが、中国の資本主義はここまで来たのである。(資本主義の要素が中国に導入されなかったら、たぶん駱英は違った詩を書いていた。)
 駱英のことばにエロチシズムがあるとすれば、それは焼尽としてのエロチシズムである。セックスである。けっして閉ざさない、「その故に」と過去を「いま」に引っ張りだして、そのうえでそれを焼尽させる。その焼尽をさらに「その故に」と「過去」にたたき落とし、たたき落とすことで「いま」に引っ張りあげて、燃焼させる。
 その結果、何が残るか。
 高潔が残る。清らかさが残る。
 スピードと明晰と軽さ。
 それを支える強引な論理「その故に」。
 
 これは、私の考えでは性(セックス)とは少し違う。セックスとはじらすものである。反語的な言い方になるがセックスとは想像していた頂上に到達しないようにじらすことである。じらしてじらしてじらして、突然、想像していなかったあたらしい頂点を突き破ってしまうことである。
 でも、そういうふうにことばにして、駱英の詩は、セックスの詩とは違うと書いてしまうと、書いた瞬間に、あ、やっぱり新しいセックスだったのかとも気がつく。
 駱英はじらすかわりに、駆り立てて駆り立てて駆り立てて、私の知っている頂点を飛び越える。まるで思春期の熱い熱い精液のようにことばが無尽蔵に、ながながと、果てしなく飛び出す。
 うーん、
 私は、その若い力に嫉妬して、「その故に」、だらしない間延びした感想を書いているのかなあ。書いてしまったのかなあ。

第九夜
駱 英
思潮社