谷川俊太郎『こころ』(27) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(27)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「目だけで」には不思議な矛盾がある。

手も指も動かさずふんわりと
目であなたを抱きしめたい
目だけで愛したい
ことばより正確に深く

 「目だけで愛したい/ことばより正確に深く」とことばでしか言えない矛盾。これは矛盾ではなく、ジレンマみたいなものかな。
 不思議なことに、ここに書いてあることが、わかる。
 そのとき、私は「何で」わかっているのだろう。ことばで? あるいは目で? たぶん、誰かをみつめた記憶によって。それは、ことばにならずに、肉体の奥に残っている。その覚えていることが、谷川のことばによって引き出されてくる。この感じが「わかる」だ。

 しかしことばは「正確」ではないのだろうか。ことばは「深く」ないのだろうか。――と、考えると、わけのわからないところにはまり込む。
 目は、ことばを通らずに、直接、あなたに触れる。その「直接性」を谷川は引き出そうとしているのかもしれない。何かを仲介としないということは、仲介による「誤謬」を排除することであり、それが「正確」と呼ばれているのだ。仲介をはじょすると、距離が縮まる。その縮まった感じを「深く」と感じるのは、縮まった分だけ相手の中に入ってゆく感じがするからかな?
 考え方はいろいろできるだろうけれど(意味、論理なんて、適当につなぎ合わせられるだろうけれど・・・)、

目だけで「直接」愛したい

 と、そこに「直接」があるのだと考えてみる。そして、その「直接」が省略されているのは、その「直接」が、谷川にとってわかりきったことだから、と考えるなら――私がいつも主張しているキーワードが、「直接」ということになる。「キーワードはいつも省略される。筆者にはわかり切っているので、書く必然性がない。そして、そのキーワードはあらゆるところに補うことができる。」
 やってみよう。

手も指も動かさず「直接」ふんわりと
目であなたを「直接」抱きしめたい

 2連目は、もっと「直接」が省略されながら、見えないところでことばを(思想を/肉体を)統合していることがわかるかもしれない。「直接」を補った形で引用してみる。

そう思っていることが
見つめるだけで「直接」伝わるだろうか
いまハミングしながら
洗濯物を干しているあなたに「直接」

 「直接」のなかで、ふたりは融合する。区切るもの(区別するもの)がないのが「直接」なのだから。


みみをすます
谷川 俊太郎
福音館書店