池田順子「初夏」 | 詩はどこにあるか

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池田順子「初夏」(「交野が原」75、2013年09月01日発行)

 詩は1行に感動すれば詩である。1語のこともある。池田順子「初夏」は、そうした作品の好例。

好きなひと いる?

聲が
初夏の光のなかで
ふるふる ゆれ
うごく

覗き込んだ
少女の瞳の奥
はじめての夏が
胸の高さで
萌える
緑の
聲の色を
しならせる

いないの?

 3連目の最後「しならせる」。いいなあ。
 「しならせる」ということば、「しなる」ということばは知っている。でも「緑の/聲の色を/しならせる」という具合につづくと、うーん、私の知っている「しなる」と違う。竹がしなる、体がしなる。やわらかにたわむ、曲がる――というイメージ。「色」は、しなる、しなう、たわむ、まがる、という動詞を述語にはしない。そういうことばづかいに私は出会ったことがない。だから、「学校作文の添削?」ふうにいうと、池田のことばは間違っていることになるのかもしれないが・・・
 「肉体」が、これでいい、これがいい、と言っている。
 頭で考えると、どうしてもつじつまが合わないのだけれど、そのつじつまの合わないところを、からだ(肉体)が覚えている何かがつきやぶって「しなる」としっかり結びつき、そこで起きている「こと」を納得する。納得させられてしまう。
 単なる「色」がしなるのではなく、「聲の色」がしなる、だからかもしれない。「聲/声」に色があるかどうかは難しいが、「黄色い声」「つやっぽい声」というような表現が慣用句としてあるところを見ると、声は色彩と(視力と)相性のいい存在かもしれない。その声が「しなる」。これならなんとなくわかる。剛直な声が丸くやわらかくなったり、温かい声が冷たくなったり。声は耳で聞くだけでなく体のさまざまな感覚を刺戟してくる。声が「しなる」というのは、なんとなくわかる。強引にことばにしてしまうと、ちょっと、ためらいを含んで、まっすぐだったものがたわみ、ゆれる、ゆらぐ感じかな。その、ためらいだとか、ゆらぎだとか、そういう感情と一緒にあるはじらいのようなものが「色」にも影響する。それが、見える。
 動詞、あるいは感覚は、基本的には肉体の特別なものと結びついて動く。目なら見る、耳なら聞く。でも、そういう「区別」をまたいで感覚が動詞になることがある。目で聞く、耳で見る。それに似たことが、「聲の色が/しなる」でも起きていて、その起きていることを、頭は整理し言語化できないのだけれど、肉体は納得してしまう。その納得は、きちんと池田の意図をくみ取っているかどうかわからないが、つまり「誤読」かもしれないが、いいなあ、とうなってしまう。
 こういうときです、私がセックスしていると感じるのは。ことばを読んでいるだけなのに、池田の肉体と交わっている気持ちになるのは。そうか、「しなる」ということばは、体の中をこんなふうにうごくこともできるのか。こんな感覚があるということを教えてくれるのか。こんなふうに感覚を(肉体を)目覚めさせてくれるのか。出会えてよかった、セックスできてよかった、と思うのです。
 で、そういう感覚のなかで、私は池田の書いている「少女」にも出会うのだけれど…不思議。私は池田に質問されている少女を見るだけ? そうじゃなくて、もしかしたらその瞬間、私は少女になって、池田から「好きなひと いる?」と聞かれているのかもしれない。その少女は、もしかすると少女時代の池田かもしれないけれど。――区別のないところで、区別のないまま、すべてが溶け合うようにして出会うのかなあ。
 こういうわからない感じ、「錯乱」のなかにある「真実」が好きだなあ。



瀬崎祐「遮眼」の1連目。

見つめられた風景は滲んでくる
古くなった紙片が我が身をちぢめるように
風景の周囲がめくれてくる
立ち去ろうとしているうしろ姿の女は
もうじき風景からはみでていく

 「滲む」「めくれる」「はみでる」の動詞が「我が身をちぢめる」の「我が身」に反響する。「我が身」か・・・瀬崎以外には、ここでこんなふうにつかう詩人はいないだろう。「我が身」が瀬崎のキーワードなのかも。

水たまりのなかの空―詩集
池田順子
空とぶキリン社