私は目が悪いので、ことばの多い作品はどうにも読み進むことができない。榎本櫻湖「オカルト海星のえげつないあらまし」は短いので、読み通すことができた。不思議なことに、読み通してしまうと、短い作品では物足りない。私はわがままな読者だ。
閃光を目撃する、雑多な網膜にひっかかっている星座がどう
も厄介だ、心拍数の上昇により霞がかってみえる極彩色の瀟
洒な捕鯨基地に現れた、縦横にすばやく明滅するいくつもの
地図、コバルト鉱石が優しく爆発し、粉砕された貴金属の物
体が深海をうつろう、豊かな痕跡を暗部に宿し、劣化した石
灰質の閨房では、黒く輝く新興都市が脱皮をくりかえしてい
る、
作品はまだつづくのだが、目が痛いので省略。
なぜ目が痛いかというと、榎本の詩では、ことばが頻繁に「ずれ」をかかえこみながらくりかえされるからである。榎本は、「時間的(音楽的)」な詩人というより、「空間的(絵画的)」な詩人ということになるのかもしれない。
私の読み方では、榎本は、ここでは「閃光」を空間的に「複雑」に構成しなおしている。「時間」は閃光が目撃できる「瞬間」である。
閃光は、網膜に「星座」の残像を残す。「雑多な網膜に」ひっかかっている星座は、網膜にひっかかっている「雑多な星座」である。「雑多な星座」であるから「霞がかってみえる」、あるいは「網膜にひっかかっている」から「霞がかってみえる」。
「意味」は特定しても意味がない。「ずれ」お輻輳により、空間を平面から立体に作り上げてゆくのが榎本という詩人なのである。
この「ずれ」をどこまで把握、維持できるか、詩人と読者は競争しないといけない。
閃光は、星座、地図、深海、閨房へと、あるいは極彩色、明滅(する)、爆発(する)、粉砕(する/される)、輝くへと「ずれ」を滑走する。そのかたわらでは、ひっかかる、厄介は心拍数の上昇、霞がかって、明滅(する)、いくつも、うつろう、劣化(する/した)。あるいは、極彩色は、雑多、破砕された貴金属、豊かに。
ややこしいことに、それらのことばは完全なゲシュタルト運動をするのではなく、閃光がときとして暗闇に炸裂するように、反対の概念によって補強される。極彩色と、霞がかって、瀟洒(瀟洒は必ずしも極彩色と矛盾しないかもしれないが)、優しくと爆発、豊かなと痕跡、黒くと輝く。劣化したと閨房も、「流通概念」では自然な(つまり肯定的な)ことばの結びつきとは言えないだろう。
ただし「黒く輝く」「劣化した閨房」」というようなものは、実は「現代詩の流通言語」でもある。「網膜」「明滅」の遠い呼応も、並列すると「現代詩の流通言語」であるし、「瀟洒」など過去の産物だ。新しそうに装われているが、新しいことばは動いていない。短い作品だと、あたらしいことばが動いていないということに目が行ってしまうのである。
引用しなかったが、後半の「神秘的な求愛」だとか「妖艶なしぐさで信号を送りあう」だとかは、いまでもだれかつかうことばなのだろうか。
榎本の書いている詩は、極端にいうと、多くの詩人、作家が1行に凝縮する事柄を、凝縮ではなく増殖させ、同時にその密度を上げることで、そこに在ることを凝縮と偽装することである。
たぶん、好みの問題になるのかもしれないが、私は、複雑(雑多)が空間を立体的に豊かにするとは感じていない。榎本の詩は詩として理解できるが、その方向性には与しない。与しようにも私の視力では困難である。思いつく限りを突破して、思いつかないことばまでひっぱりだして動かす、空間そのものを突き破り、空間そのものを言語の内部にしてしまおうとすることは、おもしろいことだとは思うが、それだけでは空間は単調である。ことばがどれだけ増えても、一種類にしか見えないし、(今回の詩についていえば、「閃光」ということばしか残らないし)、空間の内部に音が響き合わないと息がつけない。音が動くと、そこに時間も必然的に生まれ、世界が豊かになると思う。
![]() | 増殖する眼球にまたがって |
榎本 櫻湖 | |
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