井野口慧子『火の文字』 | 詩はどこにあるか

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井野口慧子『火の文字』(コールサック社、2013年08月06日発行)

 「光の束」という詩がある。その詩を読んだとき、それまで読んできた詩がさーっと消えて行った。巻頭の「オルガン」の中ほどの、

いつのまにか そのオルガンを
見捨てたのも わたし

 の2行、とくに「見捨てたのも わたし」ということばが美しくて、なんとかその美しさの肉体に近づいてみたいと思っていたのだが、その感じも消えてしまった。――と書くのは、一種の矛盾だが、その行に私は傍線を引いている。その傍線を見ながら、最初に感じたことを思い出したふりをしているのである。こんなことが、「光の束」と関係があるのかどうかわからないが・・・

 「光の束」を読む。

ありふれた街の路上で
あの時 たしかにぼくはきみに出会った
途方もない長い暗闇の底から
ぼくは きみの名前を呼んだ

懐かしい風に包まれて
きみが ぼくの前に立ち
ぼくの名前を呼んだ時
ふるえる大気に 小さな虹がかかった
流れる雲 葉音を立てる樹々
草叢にこぼれる露草さえ
一瞬 息をとめた
二人の足下から 一つの歌が生まれ
地上から海へ 空へ 宇宙へと
響きあう命のリズムが あふれ出した

 抽象的な「抒情詩」なのだが、抽象が気にならない。「音」が懐かしいくらいに美しい。「あの時 たしかにぼくはきみに出会った」という行にみられる「1時あき」の、その空白にさえ透明な声を感じる。
 この詩では「ぼく」と「きみ」が出会うのだが、ふたりは人間であって、人間ではないのかもしれない。
 「ぼく」が会ったのは「ありふれた街」であり、出会った瞬間に、すべてのものが「名前」となって「ぼくの口」からこぼれる。「風」と呼べば風が生まれる。雲も、木も、草叢、露草も、「ぼく」が呼ぶ「名前」と共にあらわれ、返礼のようにして「ぼく」の名を呼ぶ。呼ばれて「ぼく」は風景の光の中に消えてゆく。
 存在するのに、消えてゆく。――消えてどうなるのか。「光の束」になるのか。そうかもしれない。そうではないかもしれない。
 呼んで、呼ばれたということさえ、他人にはわからないかもしれない。
 もしかすると「オルガン」と井野口も遠い昔に呼び合ってであったのかもしれない。呼び合って出会い、音楽をかなでたのだろう。

詩集 火の文字
井野口 慧子
コールサック社