谷川俊太郎『こころ』(25) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(25)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の色」を読む。

食べたいしたい眠りたい
カラダは三原色なみに単純だ
でもそこにココロが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 あ、三大欲望は「カラダ」が主張(?)するんだ。
 谷川は簡単に体とこころの二元論から出発しているようにも見えるけれど、「色見本そこのけの多様な色合い」に変化するのはカラダだから、どこかでしっかり結びついていることになる。
 単純な二元論ではないね。
 だとしたら、たとえば逆は言えないのかな?

食べたいしたい眠りたい
ココロは三原色なみに単純だ
でもそこにカラダが加わると
色見本そこのけの多様な色合い

 ココロが食べたいと思ってもアレルギーがあり食べられない。したくても肉体的に不可能。眠りたいと思っても目は覚めたまま…うーん、こっちの方が「現代」とシンクロしそうだなあ・・・
 よくわからない。
 よくわからない、といえば、さっき私は1連目の最後の「色合い」がかわる「主体」をカラダと書いたのだが・・・

その色がだんだん褪せて
滲んで落ちてかすれて消えて
ココロはカラダと一緒に
もうモノクロの記念写真

 あれっ、主体はカラダからココロになっている。1連目の最後も、カラダにココロが付け加わるとき、反作用のようなものがあり、ココロの色が変わるということか。
 この主体の移行には、谷川はカラダとココロを比較したとき、ココロを優位に置いているという無意識が隠れているかもしれない。

いっそもう一度
まっさらにしてみたい
白いココロの墨痕淋漓
でっかい丸を描いてみたい

 3連目では肉体はみあたらない。「描く」というがあるから、そこのかろうじて肉体が残っているかな?
 カラダが消えると、急に、抽象的、観念的になった気がする。墨で丸を描くというのは禅宗かな? こんなことを考えるのは「意味」にとらわれているということだね。

 「意味」が強く残る詩だ。


あさ/朝
谷川 俊太郎,吉村 和敏
アリス館