谷元益男『骨の気配』 | 詩はどこにあるか

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谷元益男『骨の気配』(本多企画、2013年08月01日発行)

谷元益男『骨の気配』は、自然と共にある暮らしを描いているように見えるが、うーん、私はこの世界を信じることができない。過疎化が進むということは田舎の自然がそのままのこるということとは違う。若者の消えた村に、「土着の思想/土着の哲学/土着の科学」が残っているとは私は感じたことがない。どんな「思想/科学」も、それを引き継ぐ若者がいないかぎり消えてゆく。若者に「誤読」されない限り、生き残れない。批判され、拒絶され、そのときの、一種の抵抗のようなものが働かない限り、「純粋」という不治の病のなかで死んでゆく。
いまさら、そういう「悲劇」を抒情と呼んでみてもしようがないと思う。
谷元がここで書いているのは「私(谷元)」を消して、つまり「無私」の状態で、自然と人間の営みをよみがえらせるという方法なのだが、嘘っぽすぎて、困ってしまう。たとえば「畝の中」。

病に倒れた男は
やせた足を引き摺り
湿ったワラを敷きこんだ畑の畝に
失ったことばを
植えつけていった

たとえば、男のつくる芋が男のことばである――という比喩は比喩としてわかるが、そのことばを拒絶する若者のいないところでは、それは比喩どころか芋ですらない。畑で育てた芋を若者は食べない。スーパーで、コンビニで買った芋を食べる。その芋は「栽培」という過程をもたない芋なのである。

ことばは
畝の中で白い根をはり
徐々に伸びていく
空の隙間をさがして
枝分かれした蔦のように
幾筋にも
くねっている

このことばは、この芋は、過去の「抒情」にむかって育ってゆく。もちろん過去の中で育ってもいいのだけれど、谷元に、過去の中で育てているという意識はあるのか。自覚し、時代に背を向けて、知らん顔をして生きるのなら、それはそれでかまわないが、そうなら詩集という形にしないでもいいだろう。

「自前」というものを、こんな形にしてはいけない。美しく整えてはいけない。美しく整わないから「自前」なのだ。


水をわたる
谷元 益男
思潮社