谷川俊太郎『こころ』(23) | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎『こころ』(23)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「旋律」の第1連。

わずか四小節の
その旋律にさらわれて
私は子どもに戻ってしまい
行ったことのない夏の海辺にいる

 さっと読んでしまうけれど不思議。旋律が「私」を過去に引き戻す。けれどその過去は知らない過去。知らなくても、それは私の過去? そういえる根拠は? 私の肉体の連続性。でも、子どもと私はほんとうに連続した「ひとり」か。
 2連目にも、少し似た表現がある。

パラソルをさした母親は
どこか遠くをみつめている

 どこか、とはわからないという意味。知らない(行ったことのない)に似ている。知らない、わからない――ということのなかにも、何かわかること、知っていることがある。
 そして、それは教えられたからではない。肉体が覚えていることなのだ。おぼえていることがよみがえる。
 遠くを見つめる母の気持ち――それは、「いま」わかるだけではなく、子どものときにもわかったのだ。遠くの意味も。ただし、「どこか」はわからない。わからないのに「どこか」であることもわかる。「ここではない」ということが・・・
 3連目。

前世の記憶のかけらかもしれない
そこでも私は私だったのか

 あ、むずかしいなあ。私ではないかもしれない。母親だったかもしれない。
 だれであったにしろ、「いのち」だった。「肉体」につながる「いのち」だった。



じぶんだけのいろ―いろいろさがしたカメレオンのはなし
レオ・レオニ
好学社