「旋律」の第1連。
わずか四小節の
その旋律にさらわれて
私は子どもに戻ってしまい
行ったことのない夏の海辺にいる
さっと読んでしまうけれど不思議。旋律が「私」を過去に引き戻す。けれどその過去は知らない過去。知らなくても、それは私の過去? そういえる根拠は? 私の肉体の連続性。でも、子どもと私はほんとうに連続した「ひとり」か。
2連目にも、少し似た表現がある。
パラソルをさした母親は
どこか遠くをみつめている
どこか、とはわからないという意味。知らない(行ったことのない)に似ている。知らない、わからない――ということのなかにも、何かわかること、知っていることがある。
そして、それは教えられたからではない。肉体が覚えていることなのだ。おぼえていることがよみがえる。
遠くを見つめる母の気持ち――それは、「いま」わかるだけではなく、子どものときにもわかったのだ。遠くの意味も。ただし、「どこか」はわからない。わからないのに「どこか」であることもわかる。「ここではない」ということが・・・
3連目。
前世の記憶のかけらかもしれない
そこでも私は私だったのか
あ、むずかしいなあ。私ではないかもしれない。母親だったかもしれない。
だれであったにしろ、「いのち」だった。「肉体」につながる「いのち」だった。
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