ジュリー・デルピー監督「ニューヨーク、恋人たちの2日間」(★★★) | 詩はどこにあるか

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監督 ジュリー・デルピー 出演 ジュリー・デルピー、クリス・ロック、アルベール・デルピー、アレクシア・ランドー 


 フランス人の個人主義は自己主張の個人主義である。自己主張できる人間だけがまともな人間である、という個人主義である。自己主張の内容はどうでもいい。個人というのはもともと別人。自己主張の内容が共通していたら、それは「個人」ではない。違っていてこそ個人なのだから、でたらめな自己主張の方が「確立された個人(独立した個人)」として尊敬される――と書くと極論になるが、ま、私の理解はそういうところにある。
 で、この映画。何から何までフランス人である。出てくるフランス人が、フランス人を演じている。主役(監督)のジュリー・デルピーが新しい恋人と出会うのさえ、別れた恋人への愚痴がきっかけである。「私をわかって」「私をまるごと受け止めて」という自己主張がきっかけである。
 そのジュリーのところへ、父親、妹、妹の恋人(ジュリーの元彼)が押しかけて・・・というのが映画のストーリーだから、もう、フランス人の大暴れ。ニューヨークの、アメリカの個人主義は、自己主張というよりも、一対一の関係の確立。あなたが個人なら私も個人、余分なものを持ち込まずに一対一を押し広げようという感じ、いいかえると一対一の関係にない人なんか知らない基本。知らない人と接するにはルールがある、がアメリカの個人主義。これはどうしたって、フランスに引っ掻き回されるね。人数のうえでもアメリカ人は一人、フランス人は4人なんだから決定的に不利。
 ジュリーの妹は、泊まっている家が姉の恋人の家であることを無視して、裸で歩き回る、Tシャツは着てもパンティーを履かない。シャワールームで大声を出して恋人とセックスする、セックスするとき、そこにある電動歯ブラシを使うとやりたい放題。何もアメリカ人にあわせる必要はない。「参加して」とも言っていない、つまり「巻き込んではいない」というのがフランス人の主張。「私は裸でいるのが好きだから裸。あなたに裸になれとも、裸を見てくれとも頼んでいない」。確かにその通りなんだけどね。でも、わがままだよね――と感じるのは私が日本の個人主義を生きているから。自分の生きている個人主義のあり方は自分には見えないから、他人の個人主義をあれこれ言うだけなんだけれどね。
 あ、映画からどんどん離れてゆく。
 映像のことをいうと。フランス人一家(?)がニューヨークを歩く。駒落としで、ちょっとだけなのだけれど、マンハッタンが違って見える。アメリカ人が撮る合理的、無機質な表情は消えて、へんな匂いが漂う。構図が落ち着いていなくて、てきとうに揺れる。美しい映像ではなくて、整理前の、肉体でそのままさまよった感じ。その揺れ具合が、チーズの匂いというか、ワインのにおいというか、柔らかくて、ちょっとひきつけられるね。「地下鉄のサジ」がおとなになって、現代のマンハッタンを駆け抜けてゆく感じ(におい)が結構、おもしろい。
 人が出てきて、何かやれば、ストーリーなんて自然にできる、というフランス人の「個人」への自身みたいなものも感じられ、私はこういうフランス人は好きではないが、映画は好きだなあ。私が直接困るわけではないから。演技する(ストーリーを展開する)というより、一瞬一瞬を遊んでいるのを見るのは楽しいね。
(2013年08月15日、KBCシネマ2)


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