崖のくぼみに
群がるとげのある
タラノ木に白い花が
つき出る頃
没落した酒屋の前の
細い坂を下つて行く
ジュピテルにみはなされて
植物にさせられた神々の
藪の腐つた臭いは
強烈に脳髄を刺激する
神経組織に秘む
永遠は透明な
せんりつを起す
4行目の「つき出る」に驚く。花が咲く--それを花が枝から「つき出る」。それは突き破って出てくるということだろう。「咲く」も動詞なのだが、「つき出る」は「咲く」より激しい。過激だ。
興味深いのは「ジュピテルにみはなされて/植物にさせられた神々の」という2行である。西脇の詩には「植物」がとてもたくさん出てくる。それも、この詩に出てくる「タラノ木」のように、どちらかといえば素朴な、観賞向きのものではないものが多い。それぞれの土地で深津根付いているものが多い。そういう「植物」に対して「ジュピテルにみはなされた」という修飾節を西脇はつけている。植物はジュピターに見放されている? それが事実かどうか(神話でそう書かれているのか?)、私は知らないが、まあ、それはどっちでもいいんだろうなあ。私がおもしろいと思うのは、その「ははなされている」という否定的なことばからはじまる不思議な運動(ことばの変化)である。
みはなされて→腐る→強烈な臭い。それが脳髄を刺激する。そして、永遠が「せんりつ(戦慄?)」を起こす。その運動のなかで「腐る(臭い)」と「永遠」が出会う。「腐る(臭い)」には否定的なニュアンスがある。「見放されて」と通い合うものがある。それが「永遠」を浮かび上がらせる。「永遠」を「戦慄」として浮かび上がらせる。
そのことばの出会い、「矛盾」したことばが出会い、輝く--その瞬間がとても美しい。私が見たものは、「腐る(臭い)」なのか「永遠」なのか、わからなくなる。この「わからない」という瞬間が、私は好きなのである。
また、「ジュピテル」ということばからはじまる不思議な音の響きあいも、とても気持ちよく感じられる。「ジュピテル」「植物」「強烈」。「ジュピテル」という日本語ではない音が、前半のことばの「和ことば」を破って、「漢語」を引き出すのだ。「漢語」が連鎖して「脳髄」「刺激」「神経」ということばを引き出す。そこにも音の響きあいがある。のう「ず」い、し「げ」き、の濁音の呼び掛け合い。「し」げき、「し」んけい、の頭韻。その影響を受けながら「永遠」と「透明」が別の音楽を響かせる。「えーえん」「とーめー」。「漢語」のなかにある、その「音引き」の共鳴。「せんりつ(戦慄)」は「「旋律(音楽)」のなかで、忘れられないものになる。
あ、これは「誤読」だね。強引な、ことばの分解だね。
でも、「意味」とは無関係に、そういうことを私は感じてしまうのだ。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ) |
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