ミヒャエル・ハネケ監督「白いリボン」(★★★★★×5) | 詩はどこにあるか

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監督ミヒャエル・ハネケ出演クリスティアン・フリーデル、レオニー・ベネシュ、ウルトリッヒ・トゥクール

 とても怖い映画である。怖い、と書いてしまうのが怖いくらい怖い。映像はあくまでも端正で構図が揺るぎがない。光はあくまで透明に輝き、闇はあくまで暗い。嘘がないのである。
 いろいろ怖いシーンがあるが、象徴的なのは牧師の少年が牧師(父)に問い詰められるシーンである。牧師は少年が元気がないのを問い詰める。「何か反省することはないか」。牧師は少年がオナニーにふけっているため、元気がないことと知っている。そして、そのことを直接言わずに、ある少年の話をする。その話を聞いて少年は顔を赤らめ(牧師が指摘する)、涙も流すが、「何もしていない」と反論する。もちろん嘘である。それも見抜かれていることを知っていて言う嘘である。牧師は牧師で、少年が嘘をついていることがわかっているが、それ以上の答えは求めない。そのかわり、寝るときに少年の手をベッド脇にしばりつける。オナニーができないように、である。
 ここに端的にあらわれた人間の関係。それが全編にあふれている。みんな他人のやっていることを知っている。秘密を知っている。しかもその秘密は「本能」なのである。誰もがやっていることなのである。
 誰かをねたむこと、恨むこと、憎むこと、傷つけること――そういう、オナニーとおなじように「してはいけない」ことは、オナニーとおなじように「しないではいられない」ことなのである。誰もが「してはいけない」、けれど「してしまう(しないではいられない)」ことをして、それを隠している。「していない」という。嘘をつく。そういう嘘に気づかない人間はいない。そして、そういうことに気づいても、人はその嘘を徹底的にあばこうとはしない。そんなことをすれば、自分自身の嘘があばかれる。面倒なことになる。
 そして、この嘘、嫉妬、憎悪、暴力は、「こども」を突き動かす。牧師は少年に「純真(純心)」の象徴である「白いリボン」をつけさせるが、逆説的な言い方になるが、こどもたちは純真ゆえに、嘘、嫉妬、憎悪、暴力、そしてセックスに染まる。防ぐ方法、それらから自分を守る方法を知らない。自分に襲いかかってくる性の暴力から自分を守る方法など、もちろん知らない。
 それらから自分を守る方法はただひとつ。そういう「悪」に染まることである。「悪」に染まって見せないと「仲間外れ」にされる。おとなはこどもに純真をもとめる。けれど純真を守れば、こどもはこどもから除外される。また、おとなの暴力もこどもはただ受け入れる。拒んだとき、次に何が起きるかわからないから、ただ受け入れ、そうすることで嘘、嫉妬、憎悪、暴力を自分の肉体のなかにためこむ。嘘、嫉妬、憎悪、暴力は肉体の思想になる。
 「悪」に耐えられないこどもは、「悪」を「夢」(悪夢)として語る。それはこどもの悲鳴である。不思議なことに、おとなはこどもの嘘を見抜いても、「悪夢」のなかの「悪」にはなかなか気がつかない。「夢をみたんだね、夢だから気にしなくていいよ」と言ってしまったりする。

 それにしても美しい映画である。完璧に美しい。それは、誰もが見たことのあるものである。見てきたものが純化、純粋化された形でスクリーンに定着している。美しすぎて、信じられないくらいだが、きっとそれは、嘘、嫉妬、憎悪、暴力さえも、完璧に純粋化されているからである。
 映画の時代は第一次大戦前、舞台はヨーロッパの敬虔な村だが、そこで起きていることは、どこでも起きている。都会でも、会社でも、家庭でも。白いリボン(純真、無実)を求めるこころがあるところなら、いつでも起きるおとなのだ。矛盾した言い方になるが、白いリボンを要求するものがあるとき、黒い悪が野獣のように動くのである。悪に対抗するものが白ではなく、白に対抗して動くのが黒、悪なのである。その不思議な拮抗が、この映画の「モノクロ」の輝きそのものになっている。
 この映画を批評して「古典になっている」ということばがあったが、「古典」というようり、私の感覚では「神話」である。あらゆるシーンが絶対的に美しく、超越的である。
                        (3 月2 日、KBCシネマで)




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