野木京子「Zの記号」ほか | 詩はどこにあるか

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野木京子「Zの記号」ほか(「スーハ!」7、2011年02月25日発行)

 野木京子「Zの記号」は、何が書いてあるのかわからない。わからないのだけれど、とても気になる。

部屋に戻ると Zという名の若い男が
「ここは私の土地ではないので、言葉が記号のようだ」と言う
それで 生き抜けるために わたしは記号を部屋のすみずみに 並べた
スラッシュは削除すること ひとおもいに切り裂くこと
ピリオドは周期のこと 最終段階のこと
ダッシュは粉々にすること ひとを打ちのめすこと
順繰りに偽造し 記号の言葉を内に入れて わたしも記号になった
ひとに故郷がなくなったように記号にも故郷がなく なまの臭いはどこにもなかった

破線を縫い上げるように泳いでいく
背が青く艶びかりのするもの
声を出さないかれらは
美しい記号のようだが
内臓もそうなのだろうか

はらわたの故郷は海の粒子なのだから
私のそれも同じなのだろうと
故郷を持たないZが言う

 「言葉」ではなく「記号」で会話する。そういう人間関係はとてもおもしろい。「言葉」を拒絶し、「記号」を受け入れる。スラッシュ、ピリオド、ダッシュ、破線。それは、沈黙であり、呼吸なのだろう。沈黙と、呼吸--ことばにならないことば。でも、そこに野木は「意味」を見出している。「削除すること」「切り裂くこと」「周期(終期?)のこと」(=最終段階?)」「粉々にすること」「打ちのめすこと」。「意味」とは「……すること」。動詞。そして、その動きを「こと」という名詞で閉じ込める。
 同じこと、つまり、動詞を生きて(偽造し)、記号の言葉(沈黙と呼吸)を「わたし(野木)」の「内=肉体」に閉じ込めることで、野木は「記号」になる。沈黙と、呼吸そのものになる。
 沈黙と呼吸の交錯が、なにやらセックスを感じさせる。ただし、官能が切り開く未知のわたしに出会うセックスではない。セックスであるかぎり、そこには自己からの逸脱があるのだが(エクスタシーがあるのだが)、それは野木の場合の逸脱は、なんといえばいいのだろう、無機質、いや、虚無の逸脱なのだ。
 2連目の「声を出さないかれら」の「かれら」とは「私(Z)」と「わたし(野木)」のことだろうか。それとも互いに「記号」になったふたりの、その名づけられていない記号なのか。スラッシュでもピリオドでもダッシュデも破線でもなく「背が高く艶びかりするもの」と描写されるしかない「記号」なのか。--わからないものはわからないままにして、そのセックスには「声」がない。(声を出さない)。声は「言葉」のためにあり、沈黙と呼吸は「記号」のためにある、ということなのか。
 何かしら異質なものが交錯する。それはそのまま「Z」と「わたし」のセックスのようでもあるが、その虚無のセックスの中で、不思議なことに「美しい記号」「内臓」を野木は夢見ている。
 そして、この「内臓」ということばから思うのだが、野木にとってのセックス(逸脱--と言い換えると、ことばの運動におけるあらゆる逸脱、つまり、文学、詩など)は、自己の外へ逸脱するのではないのだ。内臓へ--自己の内部へ逸脱するのだ。虚無を、「はらわた」のように生暖かく抱え込む。

 ここには私のことばでははっきりとみることのできない「矛盾」がある。「虚無」は、私にとっては絶対に「内臓」などではない。内臓の温かみを「虚無」と結びつけることは、私にはできない。--そういう意味の「矛盾」である。けれど、この「矛盾」は野木にとっては矛盾ではない。必然であり、「美」なのだ。
 それがなぜ必然であり、美なのか、私にはわからない。わからないから、とても気になる。この詩には、野木にしか書けないことが書いてある。そして、それは野木にしか書けないことばなので、翻訳はできない。意味として理解することはできない。まるで外国語である。詩はたしかにだれのことばも外国語なのだが……。そして、多くの外国語がそうであるように、「意味」は理解できないのに、ことばの動きから「意味」を納得することがある。わからないのに、納得してしまう何かがある。
 この詩で言えば、ここにある不思議な美しさ、ことばの運動の美しさ。野木のことばを借りて言えば「なまの臭い」を拒絶して動くことばの美しさを納得してしまう。

 「ホロビの芯」にも冷たい美しさがある。そして、その冷たい美しさと感じるものは、きっと野木の中では「内臓(温かい血)」そのものなのだろうなあ、と私は、理解するのではなく、納得するのである。

箱をあけても(どの箱をあけても
小さなひかりがひとのために揺れていた

空のように遠く”私”は迷路の曲がり角で
ひかりの気配を手の内に載せて
半壊の部屋に持ち帰った
隅では知らない小動物がきいきい声をあげて
モウホロビテモイイノカモシレナイと言う
滅びてもいいのかもしれないが
ひかりはホロビとかかわりなく
ひとの芯をいまもあたためるのだ

夢は たちの悪いものしか歩かなかった
それがわたしのなかを歩いていった
それなのにひかりは わたしを追って
ついてくるのです

 この3連目の「矛盾」の美しさ。「夢」が「わたし」なのか、「わたし」が「夢」なのか、「夢」が「わたし」のなかを歩く「たちの悪い」ものか、それとも「わたし」が「たちの悪い」ものとなって「夢」のなかを歩くのか。--たちの悪いものが「わたし」なのか、ひかりが「わたし」なのか。
 これは、わからなくてもいいのだ。詩なのだから、そのときそのときの(つまり、読んだときの)気分や都合で、どうとでも感じればいいのだ。相反するものに浸食され、そのふたつを同時に感じる--そういう「矛盾」の美しさのなかに隔離され、虚無と親しくなれば、その虚無が希望にも見えてくる。
 不思議だ。



 佐藤恵「浮球」には、動揺のように美しい5行があった。

月の果ての砂浜には
流れ着いた
浮球を抱いて
卵を捨てた鳥は
青い夢をみる

 「鳥」は佐藤自身なのかもしれない。「青い夢」の「青」は佐藤にしか見えない「青」である。そして、それが佐藤にしか見えない「青」なのに--あ、この「青」を美しいなあ、と私は感じる。それは、その「青」を見たい、と心底感じるということでもある。
 だれかのことば--そして、その「意味」のはっきりしないことばに出会い、そのことばの向こう側を見たいと心底感じることがある。その先にある「詩」を感じることがある。




ヒムル、割れた野原
野木 京子
思潮社


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