大西若人「はかなき影が語るもの」 | 詩はどこにあるか

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大西若人「はかなき影が語るもの」(「朝日新聞」2011年03月02日夕刊)

 朝日新聞に「水曜アート」というページがある。この欄の大西若人の文章はとても輝いている。約1年ほど大西若人の文章を読んでいなかった(ほかのページで書いていたかもしれないし、私が読み落としているかもしれないのだが……)。久々に読んだ。
 大西若人の文章は独特で、ページを開いて、その全体を眺めた瞬間に、あ、大西若人かな、と思う。漢字とひらがなのバランスが新聞記事らしくないのかもしれない。改行の構造が新聞らしくないのかもしれない。分析したことはないのだが、何か、目を誘うものがある。(私は目の手術をして以来、活字を読むのがとても苦手になったのだが。)
 きょうも、なんの期待もなく(もう大西の文章に出会えるとは思っていなかったので)、ページを開いて、瞬間的に、あ、と思い、署名を確かめたら、大西若人だった。

 影が美しいのは、張りつめた輪郭があるから。影がはかないのは、重力の離脱に成功しつつあるからなのだ。

 最後の「しつつあるからなのだ」が、古めかしくて、ださい。うるさい。けれども、やはりことばのバランスがとても美しい。「影が美しいのは」「影がはかないのは」という繰り返しとずれ、ずれというより意識の移行、うつろいか……を論理化する文章の構造も楽しい。
 大西若人の文章に欠点があるとすれば、ああ、そうだねえ、前にも書いたことがあるけれど、美術の紹介なのに、その肝心の美術作品を忘れてしまう。文章に惹きつけられてしまうということかもしれない。
 美術作品の紹介を通り越して、批評家の文章の領域の仕事をしているのだ。

 で、先の文章。何の紹介かというと、倉俣史朗「ブルーシャンパン」というテーブルの批評である。テーブルの紹介なのだが、まるで大西の文章にあわせてつくったテーブルに見えてしまう。写真は、Hiroyuki Hirai 。これもまた、大西の文章にあわせて撮った写真に見えてしまう。
 いいことかわるいことか、わからない。けれど、大西の文章がすばらしいことだけは確かである。