夏の河原に
水たまりはあせている
土手をよこぎるかまきりは
黒い宝石を動かして
私の来るのを見ている
くるみの木は石にしがみついて
天使の睾丸のような
果実を
みどりの皮に包んで
人間の中で繁殖を考える
たそがれの皮の昔
遠い記憶と重なるのは、風景だけではない。「天使の睾丸のような/果実」という比喩も、性にめざめるころの記憶と重なる。10代のはじめというのは、「もの」そのものではなく、ことば自体にも欲情してしまう。睾丸ということばに欲情するというと、まるでゲイのようだが、そのころのことばへの欲情というのは女の肉体、男の肉体とは関係がない。肉体を感じさせれば、それだけで欲情の対象になってしまう。「もっと突っ込んで考えろ」とか「挿入」とか「深く」とか、あらゆることばを、まだ知らないセックスと結びつけ、頭が欲情してしまうのである。
そして、くるみ。「天使の睾丸」。くるみ。そのしわしわの硬い皮は、たしかに睾丸である。その睾丸に天使ということばが重なる不思議。あ、そんなふうにみたことはなかった。そんなふうに感じたことはなかった。そして、それはほんとうは感じてよかったことなのだ。感じなければならなかったことなのだ。
このことばのあと、西脇は、「繁殖」ということを書いている。それは、私のことばで言いなおせばセックスにつながるけれど、それもまた不思議なことに、遠い昔の、欲情につながる。
とてもとても、とてもなつかしい。
そして、
土手をよこぎるかまきりは
黒い宝石を動かして
この2行を、私は記憶のなかで、まったく別のものに作り替えていたことに気がつく。私は、かまきりではなくトカゲと記憶していた。土手ではなく、石の上と記憶していた。白く乾いた石の上をトカゲが動く。その影を、白い石の輝きとの対比を「宝石」と感じていた。そんなふうに記憶していた。
それは、私の見た、ほんとうの記憶である。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2 |
西脇 順三郎 | |
慶應義塾大学出版会 |
