永沢幸治「おばあさんの坂」 | 詩はどこにあるか

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永沢幸治「おばあさんの坂」(「ネット21」22、2010年12月10日発行)

 詩でも小説でも、私は1か所好きなところがあれば、それだけでうれしい。永沢幸治「おばあさんの坂--夕陽ケ丘(大阪)で」は前半がとても魅力的である。

坂が のぼりおりして
孤りで 夕陽とあそんでいる
空を見上げると
丸くなったおばあさんお背中の
うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 書き出しの2行、その擬人化が楽しい。擬人化--と書いたけれど、まあ、これは「学校教科書」風の言い方。擬人化といってしまうと全然おもしろくない。「ひと」のようにあそんでいるのではなく、坂そのものがあそんでいる。坂そのものが、のぼりおりの長さや傾斜の度合いを変えてあそんでいる。まがりくねったり、まっすぐになったり、いろんな形になって、坂自身がどこまでかわれるか(変身できるか)、それを楽しんでいる。
 そこにおばあさんがひとり。
 あそぶ坂をみつめ、その自分とは無関係な元気な姿をみて、ぼんやりしている。まあまあ、あんなにあそんじゃって、くらいは思うけれど、あとはぼんやり。ちょうど公園であそぶ孫でもみる感じかなあ。
 そのあとの、

うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 ここが傑作だなあ。
 おばあさんは、特になにをするわけではない。坂を、あれまあ、どうしてこんなに、なんて思いながらのぼりおりしているのかもしれない。そして、その瞬間、「さびしさ」がなくなってしまう。
 うーん。
 これ、いいこと? 悪いこと?
 おばあさんにとって、うれしいこと? 悲しいこと?
 わからないねえ。
 この「わからない」が詩なのだ。
 おばあさんが夕陽の坂道を歩いている。坂道はおばあさんと一緒にいるのが楽しくて、懸命にあそんでいる。それを見ているおばあさんのまわり(オーラのなか?)から、「さびしさ」がなくなる。なくなって、おばあさんが楽しい気持ちになったとする。それって、いいこと? その反動で、もっともっとつらいさびしさがやってくるとしたら、それでも、それはいいこと? おばあさんの平穏はどうなる? おばあさんって、ああ、人生って(きょうは)さびしいなあ、と思っている方がいいのでは? さびしさを相手に話し合っているのが、それはそれで楽しいのでは? こんなことは考えなくていいのだが、なぜか、私は考えてしまう。余分なことを考え、「誤読」をしたくなる。
 その行の周辺で、私はうろうろしてしまう。道草をしてしまう。この考えがまとまらず、うろうろしている時間が詩そのものなのだ。

 詩は、つづいていく。

と 不安になり
うねる壁になって
むこうの空に倒れこんでいく
(手をつないでいきたかったのに)
坂も くたびれたのだろう
ひらたくなって
おばあさんの下で
(ようやく たどりつけたね)
土の布団だけれど
やさしい傾斜になって

 ここにも楽しい行がある。(手をつないでいきたかったのに)、「ひらたくなって」。とてもいいなあ、と思う。坂の気持ちと、おばあさんの気持ちが、まるで目の前に坂とおばあさんがいるみたいにリアルに感じる。
 わからない部分というか、「論理的」には変なのだけれど(坂と手をつなぐ、とか、坂が平たくなるというのは「論理的」にはありえないのだけれど)、それが変であるから、リアルなのだ。論理ではなく、肉体が、そのことばに反応して、「そうだね」と肯定してしまうのだ。そういう「頭」ではわからない部分が、詩を豊かにする。

 で、最後。「布団」。この比喩が比喩ではない。どうもつまらない。「布団」が、いろんな「意味」を誘っている。それが、とても「いやだなあ」という感覚を呼び覚ます。私の場合は。瞬間的に、私は考えたくなくなる。感じたくなくなる。

うわの空あたりから
さびしさ が
無くなってしまうのではないか

 この3行で感じた「わからなさ」(意味のなさ)が、最後の「布団」で意味に押しつぶされそうで、楽しさが消える。
 こういう瞬間、とても悔しいね。
 あんなに楽しかったのに、たった一語で楽しさが消されてしまうなんて、と思うのだ。


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