この詩には「哲学的」なことば、「永遠」をめぐることばがいろいろ書かれている。そこに「意味」はたしかにあるし、そうしたことばについて考えるのは楽しい。けれど、それと同様に、「無意味」なことば、「意味」を拒絶していることばも楽しい。
旅人のあとを
犬がふらふら
歩いている
夕陽は
シヤツをバラ色に
いろどる
町のはずれで
もなかと
するめを
買つた
がまぐちのしまる音は
風とともに
野原の中へ去つた
「もなかと/するめを/買つた」がおかしい。どういうとりあわせ? それを一緒に売っている店ってどういう店? などということは、どうでもいい。もなかとするめというとりあわせが予想外でおかしい。予想外なので、読んでいて、私のなかで何かが壊れる。西脇のことばは乱調、ことばの破壊の音楽の楽しさがあるが、それはこんな短いことばでもできるのだ。もなかとするめはとりあわせがおもしろいと同時に、音も不思議と印象に残る。両方とも滑らかに動く。音がなめらかなので、そのとりあわせが不自然(?)なことを一瞬忘れてしまうほどだ。
次の「がまぐちのしまる音は/風とともに/野原の中へ去つた」もやはり音がおもしろい。ここには「意味」など、ない。だいたいがまぐちのしまる音など、風が運ぶ前に、そのあたりに散らばって消えてしまう。それが「野原の中」まで「去る」ということなど、論理的にはありえないだろう。
「わざと」そう書くのだ。
そうすると、そのことばとともに「もの」が動く。意識のなかで「もの」が動く。「野原の中へ」の「中」さえも、まるで「もの」のように出現してくる。「野原へ去つた」と書いたとき(読んだとき)とはまるっきり違ったものが出現してくる。
「意味」を追い、それが正しいかどうかというようなことを考えているときは見えてこない「もの」が突然あらわれて、私を驚かす。
その瞬間に、詩を感じる。
もうレンゲソウも
なのはなもない
また川べりに来た
遠くにバスが通る
ひとりの男が
猫色の帽子をかぶつて
魚をつつている
それを
見ている男の顔は
スカンポのように
青い
のいばらの
えだの首環の下から
エッケー!
ホ
ー
モ
ー
・
・
・
この詩の終わり方。「エッケー、ホーモー」に「意味」はあるだろう。「日本語」に訳せば「意味」が生まれてくるだろう。だが、西脇は、そうしていない。「ホモ」(人間)に関することばが「意味」としてあらわれてくるだろう。けれど、西脇は、そうしない。ただ、その「音」を「音」のまま書いている。音引き「ー」や無音「・」を書くことで、ことばを「音」そのものにしてしまっている。
「意味」は「意味」なりに、有効な何かなのだが、西脇は「意味」よりも「音」そのものを解放するために、音引きや無音だけの行を書いているのだ。
「意味」ではない「音」が放り出されているのである。
西脇は、いつでも「音」を詩の中に放り出しているのだと思う。「意味」はどこかに捨ててしまって、そこにある「音」の響きだけを楽しんでいる。こういう遊びが私はとても好きである。「意味」はわからなくてもいい。そのうち、ふいに「意味」を「誤読」する瞬間がくるかもしれない。こなくても、私は、気にしない。
最後の「エッケー!ホーモー」ということばの前の「スカンポ」の突然の出現もうれしい。茎の中が空洞になった植物。私の田舎では、なにも食べるものがないとき、道端のスカンポをかじって歩いた。そういうようなことも思い出すのだ。西脇が書いていることと関係するかしないかわからないことを、かってに感じるのだ。スカンポというかわいた音とともに。
![]() | 最終講義 |
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫 | |
実業之日本社 |
