今井好子「忘れられたかばん」 | 詩はどこにあるか

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今井好子「忘れられたかばん」(「橄欖」89、2010年12月01日発行)

 今井好子「忘れられたかばん」の1連目が印象に残る。感想をまとめられないのだが、ずっーと気がかりだった。

忘れられたかばんは北へ
網だなの上で北へ
電車は北の町をめざします
忘れられたかばんの下を
くたびれた男の人や
妊婦さんや腰の曲がったおばあさんや
いろんな人が入れ代わってすわり
いっとき忘れられたかばんと
すれちがっていくのですが
だれひとり
忘れられたかばんに
気づくひとはありません

 私がずーっと気がかりだったのは、「いっとき忘れられたかばんと」という行である。この行の「いっとき(一時)」は次の行の「すれちがっていく」と意味の上ではつながっている。前後の行のことばの順序を入れ換えると、「いろんな人が忘れられたかばんと、いっときすれちがっていく」ということになる。そして、「すれちがっていく」は「いっしょにいる」という「すれちがう」とは反対のことを指しているのだが、つまり、いろんな人は忘れられたかばんと一時的に「いっしょにいる」、いくつかの駅をすぎる間、「いっしょにいる」ということをあらわしている。
 それを承知の上で、私は一瞬、夢をみるのである。
 忘れられたかばんは、ずーっと忘れられているのではない。「いっとき」忘れられているのだ、と。誰かが、網棚の下、かばんが置かれている網棚の下にすわる。その「いっとき」、かばんはその人から忘れられている--そう夢に見てしまうのである。そのかばんは「妊婦さんや腰の曲がったおばあさんや/いろんな人」のかばんではない。だから、それをいろんな人が「忘れる」というのはほんとうは違うことなのだけれど、それでも、そのときかばんが「忘れられている」、その人たちの意識にのぼらない、その人たちから無視されている--そういう夢を見るのである。
 かばんは、誰からも見られず(注目、注意されず)、旅をしているのだ。かばんは「忘れられた」のではない。逆に、そのかばんの持ち主こそ、どこかの駅で忘れられたままになっていて、かばんが人間のように北へ旅しているのだ。
 ひとりで北へ旅するかばん。そのかばんがどこかの駅で「持ち主」を忘れてきたのには理由がある。もしかすると、捨てて、置き去りにしてきたのかもしれない。
 でも、その列車に乗り合わせた「いろんな人」は、そういうかばんの「思い」など気にしない。無視する。--「忘れる」。そう、いろんな人の間では、かばんは「忘れられた」存在なのだ。
 あ、かばんになって、小さな、誰も知らない北の町へ行ってみたい--そういう夢を私は見るのである。
 「いっとき」のかかることばをあえて「誤読」して、そんな夢を見るのである。
 そして、もしかすると今井もそういう夢を見ていたのではないか、とも思うのである。なぜって、もしほんとうに「いっとき」が「すれちがっていく」にかかることばならば、それは「いっときすれちがっていく」とつづけて書かれるべきなのである。そうせずに、「いっとき忘れられた」と書くかぎりは、どこかに私が書いたような思いが動いているからなのだ--と、私は強引に考える。

 それはもしかすると今井の考えではないかもしれない。

 では、誰の? 私のでもない。それは、ことば自身の考え、ことばの自律した動きがつかみとる夢なのだ。それは今井さえも裏切っていく。(だって、今井の書いている「学校教科書的な意味」はあくまで「いっときすれちがっていく」なのだから。)
 こういうことばの運動が、私は、とても好きである。

 詩は、つづく。

いよいよ電車にも
北の町のにおいがぷんぷんしてきて
乗っている人も北の町のヒトデ
もうすぐ終点というころ
いろなん顔を
つかれた顔やねむった顔さびしい顔
それらをうつした窓から
夕日がさしこんで
北の町をのみこんでしまいそうな
赤い大きな夕日が
忘れられたかばんをてらしています

 ほら、かばんが、人間そのものに見えてきませんか? どこかで「持ち主」を置き去りにして北の町までふらりとやってきた人間そのものに見えてきませんか?
 あ、「私」そのものを置き去りにして、そのかばんのようにどこか知らない町へと旅をしてみたい、誰からも「忘れられた」人となって、どこかへ行ってみたいと思いませんか?




佐藤君に会った日は
今井 好子
ミッドナイト・プレス

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