永遠を象徴しようとしない時に
初めて永遠が象徴される
この詩には、この2行のような「矛盾」したことばが何度も出てくる。詩は矛盾のなかにしかないからだ。
この2行を引き継いで、詩は、動いていく。
パナマ帽をかぶつて
喋つている
あの男の肩ごしに
みえる若い男の顔は永遠を
呼びおこす
永遠を追わないほど
永遠は近づく
「若い男」は「永遠」を追わず「いま」を生きるだけである。その瞬間に永遠があらわれる--というような意味よりも。
「パナマ帽をかぶつて」という2行に、私は「永遠」を感じる。なぜ、パナマ帽? 説明はない。「意味」がない。ただ、その「もの」だけがある。だから、そこに永遠がある。永遠とは、なんでも(どんな考えでも--どんな説明でも)受け入れることのできるもの--ではなく、どんな考えも、どんな説明も拒絶して存在するものなのだ。
次の「喋つている」も楽しい。話しているではなく、「喋つている」。「意味」は同じだが、「喋る」の方が「むだ」を連想させる。無意味を連想させる。そこにも「意味」の拒絶がある。
太陽が地平に近づく時
青いマントをひつかけ
ガスタンクの長びく影をふんで
どこかへ帰ろう
明日はまた
新しい崖
新しい水たまりを
発見しなければならない
なぜ、「青いマント」? ここにも説明はない。けれど、「青い」が美しい。説明がないから美しい。「ガスタンクの長びく影をふんで」も意味がない。「どこへ帰ろう」というのだから「目的地」がない。ただガスタンクの影とそれを踏むという行為だけがある。こういう意味を拒絶したことばはいつでも美しい。拒絶のなかに、永遠がある--と言ってみたくなる。
「新しい崖/新しい水たまりを/発見しなければならない」。これも理由はない。新しい崖を発見する、新しい水たまりを発見する、ということばのつながりが美しい。「発見する」ということばは、そういう具合にはふつうはつかわない。ふつうと違ったつかわれかたをしているから、美しい。「音」としてのみ、響いてくるから楽しいのだ。「新しい崖/新しい水たまり」の「新しい」という形容詞のつかいかたもとても変わっている。意味が消えて「新しい」という音の響きだけが強く浮かび上がる。「新しい」という音はこんなに美しい音だったのか、と思ってしまうのだ。
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西脇 順三郎 | |
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