広瀬弓『水を撒くティルル』には広島を書いた詩がある。「ときわ園」が私には一番印象に残った。
原爆の火を防いだイチョウの木について書いている。
「あの樹よ、あのいちょうがおったけぇ、火が止まったんじゃ。対岸は火の海、なんものうなるまで舐め尽くされとった。恐ろしい勢いで迫って来る火の高波に、もう仕舞いじゃ思うて家を捨ててみんな逃げよった。火は川を越えそこまで来た。それがどうした訳か、あの樹のところでぴたり止まったんよ、不思議じゃろう?」
原爆の火と戦ったいちょうが思い切り広げた腕、焼け焦がされようと踏み止まった胴体。それを思うと温かい水が湧いて来て上気する、誇らしげなおじいさんの顔。この地に生えて来たことで備わった単純な何かに、わたしたちはつながっていた。
「誇らしげな」ということばに胸が熱くなる。生まれてきたこと、生きてきたこと。それは何よりも誇らしいことなのだ。誰に対しても誇ることができることなのだ。木は「この地に生えて来た」、そして人間は「この地に生まれてきた」。それは私は生きている、と誇るためにである。
誰に対して?
一緒に生きている人に対して、である。
その「誇り」に対して、原爆は何を言うことができるだろうか。広瀬は、それを問うている。

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