ナボコフ『賜物』(16) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(16)

 眠れない夜、主人公が姉と謎々をする場面がある。主人公が独自の奇抜な謎々を出すのに対して、姉の方は「古典的な手本に従って」謎々を出した。たとえば

 私の最初の音節は貴金属
 二番目の音節は天の住人
 全部合わせると美味しい果物
                                (27ページ)

 この部分には訳者・沼野充義の注がついている。その注が非常におもしろい。

フランス語の原文だけが掲載されており、訳も謎解きもついていない。答えは、or「金(=貴金属)」+ange「天使(天の住人)」で、orange「オレンジ」となる。なお、この謎はよく知られているもので、ナボコフによる創作ではない。

 私がおもしろいと感じたのは「ナボコフの創作によるものではない」という部分である。
 小説にかぎらず、あらゆる「芸術」は作家の創作である--というのが基本だが、だが、創作など言語においては存在しない。どの言語もかならず誰かが語ったことばであり、なおかつ共有されたものである。そうでないと、ことばはつうじない。ことばが通じる、他人に理解されるというのは、それがオリジナル「創作」ではないからだ。
 創作とは、それでは何になるか。
 既存のものの「組み合わせ方」である。
 姉の謎々が「古典的な手本に従っていた」とことわって、ナボコフは、すでに知られた謎々をそのまま引用している。引用を姉の行為に結びつけ(自分自身ではないところが絶妙である)、そこにひとりの人間を造形している。
 ナボコフのことばが魔術的なのは、それが創作されたことばではなく、創作された組み合わせだからである。

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