和田まさ子『わたしの好きな日』。これは待望の詩集である。何年か前に「現代詩手帖」の投稿欄(新人作品蘭)で和田まさ子の作品を読んだ記憶がある。「壺」と「金魚」。たいへんな傑作である。どこかに感想を書いたような気がするが、どこに書いたか忘れてしまった。どうして「現代詩手帖賞」を受賞しなかったのだろう。金井美恵子は2篇の詩で手帖賞を獲得しているのに。高岡淳四以来の詩人の登場だったのに。
私は、その2篇以外を見落としている。投稿をつづけていたのかどうかもよくわからない。どこか他の場所で書いていたのかもしれない。私はあまり本を読まないので気がつかなかった。こうやって詩集になってみると、リアルタイムで和田まさ子の作品に接してこられなかったのが非常に悔しい。誰か、ほかの人は和田の作品に触れつづけていたのだと思うと、それだけでジェラシーを覚えてしまう。こんな天才詩人を誰が独占していたんだろう。
また、「現代詩手帖」の年鑑アンケートに答えたあとで詩集に触れたのも悔しい。アンケートに答える前だったら、絶対に「今年の収穫」としてこの詩集をあげたのに……。
こんな愚痴(?)をいくら書いてもしようがないので、その絶品「壺」について書こう。あ、しかし、この作品をほかの人に紹介するのは、いままで隠れていた(?)詩人だけに、なんだかとても惜しい。きっと和田を隠していた詩人たちもこんな気持ちだったんだろうなあ。
さて、「壺」。
あいさつに行ったのに
先生は
いなかった
出てきた女性は
「先生はいま 壺におなりです」
というのだ
「昨日は 石におなりでした」
ははあ 壺か
「お会いしたいですね せっかくですから」
わたしは地味な益子焼の壺を想像したが
見せられたのは有田焼の壺であった
先生は楽しい気分なのだろう
先生は無口だった
やはり壺だから
わたしは近況を報告した
わたしは香港に行った
わたしはマンゴーが好きになった
わたしはポトスを育てている
わたしは
とつづけていいかけると
「それまで」
と壺がいった
聞いていたらしい
「模様がきれいですね」というと
「ホッホッ」と先生が笑った
わたしは壺の横にすわった
だんだん壺になっていくようだ
わたしもきれいな模様がほしいと思った
和田の詩では「もの」が生きている。「もの」とは人間以外のもののことである。別のことばで言いなおすと、「人間」以外の「もの」がことばを発する。「いきる」とはことばを発することである。ことばを発して交渉することである。
そして、ことばというのは「共通語」のことではない。自分自身の(もの自身の)ことばである。独自のことばである。それは「間違っている」。「もの」がしゃべるということ自体が間違っているのだから、しゃべられたことばが間違っていないはずがない。
とはいいながら、ことばには間違っているも正しいもない。生きていればことばを発する--ただそれだけである。そして、ただそれだけのことを実に単純に、実におかしく、実に無意味に和田は書いてしまう。
この軽さ。この速さ。軽さと速さのなかで無意味は意味を超越する。「もの」になってしまう。
私は何を書いているか。わからないかもしれない。私は、わざと抽象的にわからないように書いているのだ。だって、悔しい。こんなおもしろい作品を誰かがずっーと隠していた。それがやっと出てきた。そのおもしろいものについて私が書いてしまうのは何だか惜しい。私だって和田の作品を隠しておきたい。でも、和田の作品を知ってももらいたい。矛盾した気持ちで私は分裂してしまう。
だから、わざと、わからないように--私にだけわかるメモとして感想を書くのだ。
ここに書かれている「壺」は何かの比喩ではない。比喩を超えてしまって、ほんとうに壺である。美しい壺を見たら黙っていることなどできない。おもしろい詩を読んだら黙っていることができないのに似ているかもしれない。そこで語ることは、何を語ってもけっきょく自分の「近況」である。ひとは自分しか語れないのである。(こうやって感想を書いている私にしたって、和田の詩の感想を書くようなふりをしながら、実は自分の近況--自分がいま考えていることを書いているだけである。)。
語るというのはとても変なことで、だんだん逸脱していく。香港へ行った。マンゴーが好きになった。そこまでは、まあ、わかる。でも「ポトスを育てている」は?
私は実は、最初これを「ポストを育てている」と読んだ。「ポトス」なんて見たことがないから、想像できなかったのだ。
でも、「それまで」と壺が言ったので、あ、ポストじゃないのだ、と気がついた。「ポストを育てている」ならきっと壺はまだ話を聞いてくれたはずである。ポストをそだてるなんていうことはできない。嘘である。けれど、その嘘には、嘘をついているんだもん、という軽さがある。それが「ポトス」となると、違うなあ。「意味」になってしまう。それではナンセンスが無意味になる。(変な文章だね)。
それでは、だめなのだ。「意味」では「もの」に対抗できない。
「壺」が「わたし」のことばを制したのは、「ポトス」などといってしまうと、「わたし」が「もの」になって「壺」と正確に向き合えなくなるからである。「頭」になってしまってナンセンスが疾走しなくなるからである。それじゃあ、つまらないねえ。
「ポトス」などと言ってしまうと「間違える」ということができなくなるからである。それでは生きている楽しみがない。喜びがない。
なんでもいい。平気で間違えて、開き直る。ことばにする。そのときこそ、ひとは生きるのである。
壺のそばにすわって「模様がきれいですね」と言って、壺の気取った笑いを聞きながら、自分自身が壺になっていく--こんなふうに生き方を間違えるなんて、なんて楽しいんだろう。
私の家のどこかに壺がないかなあ。隣に座って、和田に負けずに壺になってしまいたいなあ、と思うのだ。
「魚たちの思い出」という作品。魚屋の魚と交信(ことばをかわすことを交信というのだと思う)できなくなった「わたし」が、かつて魚と交信していたときのことを思い出している。
海の揺らぎに
身をまかせているときの心地よさ
捕獲されたときの苦しみ
切り身にされたときの
バラバラになる意識
店頭で腐りつつあるときの身もだえ
わたしは魚たちと語り合ったことを覚えている
魚たちはてらてらと輝き
日の光におぼれて
わたしはほれぼれと魚たちに見とれた
よろこびは記憶しているもののなかにある
あ、とてもいいなあ。和田はほんとうは魚だったのかもしれない。きっと現代詩手帖の投稿欄から姿を隠していたときは魚屋の店頭に並んでいたのだ。切り身にされて、腐って、身もだえしていたんだ、ひとりだけ、誰も知らない体験をしていたんだ。いいなあ。うらやましいなあ。魚になって腐ってみたいよ、と思わずにはいられない。
魚になって、「わたし」を捨てて(なくして?)、「記憶」ということばを和田はつかっているが、きっと「わたし」でも「魚」でもない「未分化」の「もの」になって、そこから、あらゆる「心地」をつかみだしてくる。そして、ことばにする。もう一度生まれ、もう一度生きるのだ。それもおおげさな決意なんかもたつず、ただありふれた退屈をぼんやりやりすごすように。
こんなことをできるのは天才だけである。
「金魚」も大好きな作品だが、書いているとほんとうに悔しくて悔しくて悔しくてたまらなくなるので、書かない。好きで好きで好きで、好きと書いたらあとは何も書きたくなくなるので、もう書かない。
しかし、ほんとうに誰なんだ。和田まさ子を隠していたのは。一生恨んでやるぞ。
