ナボコフ『賜物』(12) | 詩はどこにあるか

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ナボコフ『賜物』(12)

 詩のなかのおもちゃの説明を小説の主人公はつづける。

それは繻子のだぶだぶのズボンを履いた道化で、白く塗られた平行棒に手をついて体を支えていたが、ふと突かれたりすると、

  滑稽な発音の
  ミニチュア音楽の調べにあわせ

動きだした。

 詩と、地の文がなめらかに交錯する。地の文から詩へ移り、またそこから地の文へもどってくる。
 自分の書いた詩とともに、その詩の思い出を語っているのだから、そうするのは自然にも受け取れるが、この「芸術(詩)」と「現実(地の文)」垣根のなさがナボコフそのものなのかもしれない。
 「芸術(詩)」と「現実(地の文)」を入れ換えるとわかりやすいかもしれない。
 「現実」と「芸術」の垣根のなさがナボコフである。あらゆる現実はことばにした瞬間から「現実」ではなく「芸術」になる。
 これはある意味で苦悩である。苦痛である。ナボコフはリアルな現実に触れることができないのだ。ことばが現実を芸術に変えてしまい、いつでも芸術を生きるしかないのである。
 つまり。
 いま引用した部分に則していえば、「滑稽な発音」。これは、どうなるだろう。詩だから「滑稽な発音」という表現は成り立つ。ふつうの暮らしではそれは「発音」ではない。「発音」というのは人間がある音を出すことである。「もの」が音を出すときは発音とは言わない。「滑稽な音」(滑稽なノイズ--の方がぴったりくるかもしれない)の音楽。けれども、ナボコフは、「発音」を地の文へ引きこんでしまう。間違いとは言わないが、一種の奇妙な感じを文体全体に漂わせてしまう。
 そういう他人とは違うことばの空間・ことばの時間を、ナボコフはただひとりで生きるのである。

 「発音」という訳語が、どれくらい正確な訳なのか私にはわからないが、その訳をとおして、そんなことを考えた。




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ウラジミール ナボコフ
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