塚越祐佳『越境あたまゲキジョウ』 | 詩はどこにあるか

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塚越祐佳『越境あたまゲキジョウ』(思潮社、2010年09月30日発行)

 塚越祐佳『越境あたまゲキジョウ』には独特の「間」がある。「花」。

坂の上と下の間はつながってなくて
坂がおりるのか
わたしたちがのぼるのか

 この「間」である。
 「坂の上と下の間はつながってなくて」という1行自体が、とても独特である。坂がある。坂には上と下がある。上と下とを結んだ「距離」が「間」ということになる。それがつながっていない、ということはどういうことだろう。「間」だけがどこかにあるのか。そんなことはありえない。「間」というのはある一点と別の一点の「距離」に等しいからである。そうすると、その「間」がつながっていないというのは、「間」が存在しないということである。つまり、坂の上と下は「一点」に凝縮してしまう。「一点」のなかにそれでも上下があるとすれば、それは何か。
 エレベーターである。
 エレベーターは「坂」を超越した「上下」をのぼりおりする。水平方向の「距離」ではなく垂直方向の「距離」。塚越は「花」では、水平に動くものを垂直に動かして、その視点で世界を見つめなおしていることになる。
 「わたる」はどうだろう。

隠れていた距離が
かたつむりのように
ふやけたかかとを
這っていく

 「距離」と「間」はどこかで重複する「もの」である。隠れていた距離とは、意識されなかった距離(間)ということになるだろう。ここでおもしろいのは、その隠れていた「距離」をかたつむりが這っていくのではなく、「距離」が這っていくことである。主語は「距離」なのだ。--この構造は「花」に通じる。「わたしたち」が動くのではない。「坂」が動くのだ。「わたしたち」が動くのではなく、「坂」そのものがエレベーターのように動く。そして、「わたしたち」がもし動かないのだと仮定したとき、動いているのはエレベーターであるともいえるし、逆にエレベーターは動いていなくて、その他の世界が上下に動いているととらえることもできる。
 視点はどのようにも相対化できる。そして、そういう相対化を考えるとき、そこに「間」(距離)をもちだしてくるのが塚越の「肉体」である。「思想」の基本である。「肉体」を相対化の中心にもってくると、世界は突然ぐらつく。塚越のことばを借りていえば「ふやける」ということになるだろうか。つまり、あいまいになる。強固なものがなくなる。なぜか。「肉体」はそもそも動くことを前提としいてる。「肉体」が生きるということは、細胞が次々に生まれ、次々に死んでいくということである。「肉体」はじっとしているときでさえ、動いている。「起点」そのものが動いているのである。そこでは科学的な「間(距離)」は存在しながら同時に存在しない。
 「それはそれは」には、次の行がある。

走り去っていく車
ネオン

いつだって走り去っていき
わたしはのこされ
同時にたどりついている

 「肉体」はいつでも矛盾するのである。動いているから相対化すると矛盾を平気で抱え込んでしまうのである。矛盾を平気で抱え込みながら、その矛盾をあるときは感情にしてしまうのである。(俗な表現でいえば、悪いのはおれの方であり、女は少しも悪くはない。あるいは逆に悪いのは女の方で、おれは悪くはない、という両方の見方を当たり前のこととして受け入れてしまうの「間」が「肉体」なのである。)

 少し先走りすぎたかもしれない。「間」にもどる。「ウルウ」という作品の書き出し。

裏鳥
見ていた
見ていない
の間に雪のような紙ふぶきが散り
膜のように閉じた 背中
誰かの
たぶんわたしの

 「裏鳥」って何? 「裏取引」? まあ、なんでもいいのだけれど、「見ていた/見ていない/の間」はおもしろい。「見ていた」にしろ、「肉体」は「見ていない」と「主張」できるのである。「見ていた」と「見ていない」の「間」は存在しないのに、それを存在させることもできるのである。
 「膜」は閉じたのか、それとも「膜」は開いたまま「背中」を向けただけなのか。「背中」を向けるということは、見ていながら見ないふりをすることであり、それは見ないことによってさらに見ることでもある。
 こういう状態を言い換えると、

シャッターの内側が外側なのか
シャッターの外側が内側なのか
青年にはもうわからない

 ということになる。「間」は凝縮し、反転するのである。反転する「間」を塚越は書いているのだ。反転した瞬間、「間」が成り立たないので、世界はぐらつく。ふやける。何かなんだかわからなくなる。それでも、「肉体」が存在するとき、同時にそこに存在している。
 だからこそ、塚越は、「間」を反転させつづける。そうすることで世界をとらえなおす。このときの「間」の反転を、塚越は「越境」と呼んでいるのかもしれない。

 「見た」ものだけを「肉体」は「見ていない」といえるのである。つまり、否定できるのである。「見ていない」ものなど「肉体」にとっては存在しない。否定しようにも、「見ていない」ものは存在しない、つまり「肉体」との「間」をもっていないから、そこでは「間」の反転も存在しえない。
 「見た」ものだけを「見ていない」と言い張って、その瞬間に「肉体」は動くのである。「間」を動かし、「見ていない」と主張することで、いま、ここにないものを「見る」のである。出現させるのである。
 「破片」の冒頭。

遠く水面にのしかかる夜に
昼を見た
湿気でにじむとがったはすの花のような
(いや見ていない)

 「見ていない」と主張しない限り、「夜に/昼を見」るということが「肉体」にとって存在しない。「見ていない」ということで「見た」ということが刻印されるのである。「見た」だけでは「間」が存在せず、「見た」ことは忘れ去られてしまう何かになってしまう。
 「見た」を「見ていない」とことばにするとき、そこに「間」が出現し、その「間」が「肉体」に刻まれる。いや「間」をつなぐものとして「肉体」が出現するといえばいいのかもしれない。「見た」「見ていない」は「坂」の上と下である。そして「間」が「肉体」であり、「間」を反転しつづけるとき、世界は自在に相対化する。

明るい方角が闇だ

 矛盾が、矛盾ではなく「真実」になる。
 この「真実」は常識からは「誤謬」である。だからこそ、「見た」ものを「見ていない」と言ったとき、それは「見た」と逆に人に知らせるのと同じ意味をもつ。「見ていない」ということばの「間」、そのなかで「意味」が反転していることを人は感知してしまうのである。
 「誤謬」としての「真実」は、人間の祈りようなものかもしれない。

 この「間」の反転は、逆の形であらわれたときの方が印象が強いかもしれない。「石段、橋」には多くの人が経験する「間の反転」が書かれている。あ、その気持ち、とてもよくわかる、という感じの行がある。

石段をあがるたび
頂上の神社は遠のき

 「物理的(科学的?)」にはこういうことはありえない。けれど、「肉体」はそれを実感する。

捨てられた旅館の向こう側
には橋があって
渡りたいのに
おんなはビョーキで
鹿のようにビョーキで
でも橋は来てくれなくて

 「橋」がくるなんてことはありえない。けれど来てほしいと思うことがある。そうすればどんなに楽だろう。「肉体」は平気で矛盾というか、無理なことを夢見るのである。しかし、その無理なこと、矛盾したことの中には、「肉体」が知っている「真実」がある。これが「あたま」とぶつかったとき、そこにことばの「ゲキジョウ(劇場)」が展開する、それが詩である--と塚越はいいたいのだろう。



雲がスクランブルエッグに見えた日
塚越 祐佳
思潮社

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